金前寺
金前寺落慶式
誓法山金前寺はもと金林寺と称し、泰澄大師の開山。
気比神宮寺の密言院であったと伝える。
仮題 金林寺落慶法要 天平八年(736年)
開山:角鹿島公 導師:泰澄大師
式典責任者:敦賀石川 敦賀君痲呂
敦賀郡 郡司角鹿直綱手 海直宿奈万呂 津守郷:物部廣田 物部入鹿 松原駅:鴨部? 山君 少君
同族 下つ道臣吉備真備 笠臣痲呂 笠臣金村 利波臣志留志
越前国国司 守大伴宿禰邑治痲呂 介大蔵伊美吉石村 坂合部葛木痲呂 中臣高良比新羅 林上痲呂
丹生郡 郡司佐味君浪痲呂 矢原連与佐弥 生江臣積多 坂本連宿奈痲呂 丹生直伊可豆智
足羽郡 郡司生江臣金弓 阿須波臣真虫 山君大父
坂井郡 郡司三国真人 海直大食
江沼群 郡司膳長屋 江沼臣大海 江沼臣入鹿 財造住田
加賀郡 郡司道君 道君五百嶋 大私造上痲呂 道君安痲呂 丸部臣人痲呂
水野祐著「天平以前の出雲の寺院ー特に新造院についてー」。
出雲風土記は寺と新造院を区別。仏教に帰依した豪族が寺院と旅人を救済する布施屋を交通の便利な街道沿いに建立。金林寺を救済機能を持つ新造院とすればその存在意義は高い。松原駅から金林寺近くの街道を通り返駅に通じている官道となるはずだ。
密言院金林寺である氣比神宮の御子神金神社・林神社を最澄・空海が勧請。
金林寺が「金神社」「林神社」として祀られるその原因は、天平二十年敦賀をおそった大地震ではないだろうか。
奈良時代の敦賀郡の郡域は。
尚、海上の矢印は押勝の乱の時の想定ルート。
袴掛観音
金前寺袴掛観音(今昔物語集巻第十六)
娘に何度か夫を迎えたが、いずれも離縁となった。両親はあきらめ、
家の後に堂を建て観音を安置して、娘を守ってくださるようにと祈った。
まもなくして父も母の死に、次第に衣食にも窮するようになった。
娘が観音に向かって助け給えと願ううち、夢の中に老いた僧が現れて
「夫を見つけてやろう。明日ここに来るその人のいうことに従え」と告げた。
翌日の夕方、馬の足音がして大勢の人がやって来た。一行は若狭へ向かう途中で、
この家を宿として貸して欲しいという。見れば主人は30歳ほどの好男子である。
従者など70から80人ばかりいる。男は美濃の豪族の一人息子で、深く愛していた妻を亡くし、
再婚話も断って独り身でいた。男は、娘が話す様子などすべてが妻と生き写しで少しも違わない
ことに驚き喜んだ。翌日、男たちは若狭へ向かい、従者20人ほどが敦賀に残ったが、
これらの人に食べさせるものもなく困っていると、以前、父母に召し使われていた者の娘だと
名乗る女が、思いがけなく訪ねてきた。わけを話すと、女はしばらくして食べ物や馬の草を
運んできた。翌日の夕刻、若狭から一行が戻ると、その世話もすべて女がしてくれた。
男は、娘を明日美濃へ連れて帰るという。娘は、助けてくれた女に何かお礼をと思い、
ただ一着、紅の絹の袴があったので、自分は男がぬぎ捨てた白い袴をはき、
女に紅の袴を与えようとした。女は受け取ろうとしなかったが、
「思いがけず美濃へいくことになったから、これを形見に」と無理に取らせた。
出立のとき観音にお参りすると、その肩に赤いものがかかっている。
見ると前夜あの女に与えた袴である。さては、女と思ったのは観音が変じて助けてくださったのだ
と気づき、娘は身もだえして泣いた。男もことの次第を聞いて涙を流し、従者たちもその話に
胸をうたれた。その後、二人は美濃で仲むつまじく暮らし、子どもが多く生まれた。
敦賀にも通って観音の世話をし、手を尽くしてその女を捜しもしたが、ついぞ見つからなかった。
美濃の豪族が若狭に向かうため、美濃から敦賀郡内の金前寺で泊まり・若狭は日帰り。
林神社(御子神)
社記では延喜式に所載とするが、神号は未考としている。或いは林山姫(ハヤマヒメ)。社家の伝記として、延喜式越中国砺波郡林神社と同体也と記載。 同じく社家伝記として、桓武天皇延暦四年(789)に釈最澄が、求法祈願のため参詣している。延暦七年(792)には、林神社の霊鏡乞い請けて、比叡山日吉社に勧請している。比叡山日吉社の氣比明神である。
金神社(御子神)
8
任那国都奴加阿羅斯止の後裔は
辟田首 ・ 大市首 ・ 清水首
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この黒田郷には鏡作連がいて鏡作首もいる。
大発見だ!都奴加阿羅斯止の後裔の大市首がいる。
<鏡作首縄麻呂十三才は黒田郷戸主正八位外大市首の戸口>
やはり銅を精錬加工する集団の神が都奴加阿羅斯止。
郡司角鹿直綱手一族と都奴加阿羅斯止は無関係とするしかない。