意欲作!角鹿神社

角鹿神社も、・・パワー スッポト!

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              角鹿神社の鳥居にいるハトを撮りました。

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平成26年1月15日どんと焼き

氣比神宮(ウキペディア)より。

  • 角鹿神社 (つぬが-)
    • 社格:摂社筆頭、式内小社「角鹿神社」
    • 祭神:都怒我阿羅斯等命 (天保10年(1839年)松尾大神を合祀) - 『大日本史』や『神祇志料』、大正4年の『敦賀郡誌』は、都怒我阿羅斯等命を非として、『国造本紀』に載せる角鹿国造の祖先、建功狭日命(たけいささひ-)を充てている
    • 神階:『越前国内神名帳』に「正四位 敦賀神」と記載
古くは「政所神社(まんどころ-)」とも称した。『気比宮社記』によれば、崇神天皇の御代に都怒我阿羅斯等命が、この地に到来して朝廷に貢ぎ物をしたのを賞せられて「角鹿国の政所」とされたので、後世これを崇めて祠を建てたという。正安3年(1301年)までは境内の表口であったことから「門神(かどがみ)」とも称されていた。
この神社の祭祀は祭神の後裔とされる角鹿姓神職が預かる定めで、江戸時代以降明治初年までは島家が担当した。明治10年、摂社の筆頭に定められた。
社殿は流造銅板葺。嘉永4年(1851年)の改築によるもので、当宮で昭和の戦災を免れた唯一の建物である。

福井県史の問題の一文に下線を引きました。

海外からの渡来人や文化に関しては、ツヌガアラシト(都怒我阿羅斯等、またの名は于斯岐阿利叱智干岐)の渡来説話がある。かれは、意富加羅国の王子で、初め穴門(長門国西南部)に至り、そこから北つ海から廻って出雲国を経て、角鹿(敦賀)に着いたという(編一四)。この伝承は、有名な天之日矛の渡来説話から派生したという説があるが、それは採らない(『敦賀市史』通史編上)。むしろ、「阿羅斯等」と「阿利叱智」は同義語で固有名詞ではなく新羅や加羅では貴人への敬称であり、意富加羅は大伽耶の一つである金海の加羅国だから、その地方から貴人が相次いで渡来したのを背景にして、あたかも特定の人名のごとく形象化されたものとみられるであろう。また、その形象化には、ツヌガアラシトが「額に角負いたる人」と表現されるところから、日本海域に分布する角坏とのかかわりをみる理解の仕方もある。しかし、気比神宮東方の境内摂社になっている式内社角鹿神社は祭神をツヌガアラシトとしており、また、笙ノ川上流の五位川流域を住地とした大市(首)氏・清水(首)氏・辟田(首)氏などは、いずれもツヌガアラシトの後裔と称した(『新撰姓氏録』)。もちろん、敦賀の地には、新羅系の式内社も散見する。要は、この説話は、敦賀に相次いだ朝鮮半島南部からの渡来人とその子孫が定着し発展したことを示唆するものといえるであろう。

1985年(昭和60年)門脇貞二先生が書かれた敦賀通史がその原本です。

    福井県史も門脇貞二先生でした。

『新撰姓氏録』氏族一覧3(第三帙/諸蕃・未定雑姓)

 
  本貫 種別 細分 氏族名 同祖関係 始祖 記事 備考
 
810 左京 諸蕃 任那 大市首   出自任那国人都怒賀阿羅斯止也     291
811 左京 諸蕃 任那 清水首   出自任那国人都怒何阿羅志止也     291
 
960 大和国 諸蕃 任那 辟田首   出自任那国主都奴加阿羅志等也     315

『新撰姓氏録』(しんせんしょうじろく)とは、(ウキペディア)より。

新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)は、平安時代初期の815年(弘仁6年)に、嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑。 京および畿内に住む1182氏を、その出自により皇別・神別・諸蕃に分類してその祖先を明らかにし、氏名(うじな)の由来、分岐の様子などを記述するものであるが、主として氏族の改賜姓が正確かどうかを判別するために編まれたものである。後述するように、記載氏族が限られているとはいえ、日本古代氏族あるいは日本古代史全般の研究に欠かせない史料である。現存する『新撰姓氏録』は、目録だけの抄記(抜き書き)であって本文は残っていないが、所々にその残滓が認められるとともに、若干の逸文が知られている。なお、本書の対象とする範囲は京(左京・右京)と五畿内に住む姓氏に限られており、また「序」にはそれすらも過半が登載されていないと記している。なお、書名に「新撰」とつくのは、企画倒れで終わった『氏族志』のやりなおしという意味であって、『新撰姓氏録』以前に『姓氏録』なる書が存在していたわけではない。

「諸蕃」の姓氏とは、渡来人系の氏族で、秦、大蔵など326氏が挙げられている。諸蕃氏族は、さらに5分類され、「漢」として163氏、「百済」として104氏、「高麗」(高句麗を指す)として41氏、「新羅」として9氏、「任那」として9氏がそれぞれ挙げられる。また、これらのどこにも属さない氏族として、117氏が挙げられている。太秦公宿祢、秦長蔵連、泰氏忌寸、文宿祢、武生宿祢、桜野首、伊吉連、常世連、山代忌寸、大崗忌寸、大崗忌寸、楊侯忌寸、木津忌寸、楊胡史、浄村宿祢、清宗宿祢、清海宿祢、嵩山忌寸、栄山忌寸、長国忌寸、清川忌寸、新長忌寸、当宗忌寸、丹波史、大原史、桑原村主、下村主、上村主、筑紫史、吉水連、牟佐村主、和薬使主、大石、和朝臣、百済朝臣、百済公、調連、林連、香山連、高槻連、広田連、石野連、神前連、沙田史、大丘造、小高使主、飛鳥部、高麗朝臣、豊原連、福当連、御笠連、出水連、新城連、高史、日置造、福当造、河内民首ほか。
左京の<出自任那国人都怒賀阿羅斯也>の大市首・清水首と大和国の<出自任那国人都怒賀阿羅斯也>の辟田首
もともとは、共通の祖先をもつ血縁関係にある人たちの集団を「氏」と呼んでいたんだけど、氏姓制度においては、血縁関係のない被征服者も「氏」の構成要員に含まれるようになる。姓(かばね)
は、大和朝廷から諸豪族に与えられた政治的地位や家柄を表す称号で、天皇家を中心とする身分秩序を示すものだ。首(おびと)とは、臣(おみ)とか連(むらじ)等より低い地位の氏に与えられたものであるが、渡来人には職掌名+首として氏に与えられた。

第52回正倉院展(2000年)解説付き目録より

 続修正倉院古文書第十七巻<郡司貢人解>
天平14年(742)11月17日付の文書。
大和国添下郡の郡司が、鏡作首縄麻呂と他田臣族前人の二人を国分寺の僧として推薦したもの。
鏡作首縄麻呂は13歳で、黒田郷の大市首益山の戸口。
他田臣族前人は16歳で、黒田郷の鏡作連浄麻呂の戸口。