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敦賀古代史

< ご参拝の折、ご覧ください。 >
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天孫降臨。 持統天皇と御孫の文武天皇。

持統天皇は、天武天皇から我が子の草壁皇子・御孫の軽皇子(文武天皇)に皇位を伝えることであったとするのが通説である。

持統天皇は草壁皇子が天武天皇の後を嗣ぐことを望み、夫に働きかけて草壁を皇太子に就け、夫の死後に草壁のライバルであった大津皇子を排除した。
天武天皇の葬礼が終わったあとに草壁皇子を即位させるつもりだったが、その実現前に草壁皇子が死去したために、やむなく自らが即位。


文武天皇は父・草壁が
689に亡くなり、696には伯父にあたる高市皇子も薨じたため、697立太子。
同年、
祖母持統から譲位されて天皇の位に即位した
15
歳という先例のない若さだったため、持統が初めて太上天皇を称し後見役についた。

持統天皇の諡号は、高天原廣野姫天皇.

天孫降臨。 藤原不比等と外御孫の聖武天皇。

659年生まれ
669年鎌足死去11歳
688年判事31歳
697年娘宮子を入内39歳
701年正三位大納言43歳
 同 年外孫首皇子(聖武天皇)生まれる

708年右大臣
720年死去

 初見は遅く、不比等31歳。刑部省判事藤原朝臣史(日本書紀)。

31歳不比等は、草壁皇子から「黒作懸佩刀(くろつくりかけはきのたち)」を贈られる。

草壁皇子愛用の刀を頂いたことで軽皇子即ち文武天皇の後見人と認められた。

文武天皇が即位すると黒作懸佩刀は文武天皇に渡り、

文武天皇から聖武天皇までのあいだ、元明天皇(母)・元正天皇(姉)が即位。

この時は不比等が持った。しかし、720年不比等死去。

724年、外孫聖武天皇(首皇子)が即位すると黒作懸佩刀は聖武天皇に渡った。

そして、光明子の母県犬養橘三千代は733年死去。

図書館で、天孫降臨の原義(友田吉之助著)を大発見!

此のご本のはしがきには、このような記述がありました。

私は「天孫降臨の原義」を研究するために、
福井県三方郡三方町に現地調査に行きました(昭和50年)。
その目的は、天孫ニニギノ尊が降臨した高千穂峰が、宮崎県(日向)の高千穂峰ではなく、
福井県三方郡美浜町大字日向(ひるが)の背景に聳えている梅丈岳であろうと推定して、
現地調査に行きました。

その時、美浜町に隣接する三方郡三方町の鳥浜貝塚を見学しました。
当時、鳥浜貝塚は縄文時代の遺跡として、
考古学界から注目されていましたので、見学に行った次第です。
その時、縄文時代前期の層から、漆塗の立派な櫛が出土したことを確かめました。

日本国家形成史の研究 : 鳥浜貝塚(縄文)〜敦賀(弥生)

第一巻・「天孫降臨の原義」
原日本国は敦賀市と三方郡
第二巻から四巻は未完。

未完・「日本国家形成史の研究」総目次

第四巻・本文なし。
第三巻・本文なし。
第二巻・本文なし。

原田さんの書評。

友田吉之助『天孫降臨の原義』 渓水社、上製・A5判・219頁


2008年の暮れ、上京時に神保町で見つけた本の一冊。友田吉之助(1912〜1995)は島根大学名誉教授・島根医科大学名誉教授。東洋史学専攻から日本史に移り、現行『日本書紀』以前にその原型となった「和銅日本紀」が存在したという説で有名。
もっとも、私はこの本を書店でパラパラと見た時には同姓同名の別人だと思っていた。購入してから、「あの」友田先生と同一人物が書かれた本と気づいてかえって驚いたほどである。


本書はその友田先生の遺稿を整理したもの。
構想では全4巻の大著『日本国家形成史の研究』の第1巻となる予定だったのですが、志半ばにしてご逝去。出版はご遺族によりなされました。本書にその全4巻の構想上の目次も掲載されています。第2巻以降はそれぞれ『神武天皇東征の原義』『高天原の原義』『大和国の発展と出雲国の西遷』となる予定だったとのこと。


友田先生は自らの研究をエウヘメリズム(神話上の神々は実在の人物の投影)という立場にたつことを明言する。その立場から天孫降臨神話のニニギは実在の人物であるとみなす。


ところが、友田先生の想定によると、ニニギとはトンボの化身であり、彼が国譲りを迫った出雲とはクモの化身が支配する国(ただし、その最後の統治者とされるオオクニヌシはイノシシの化身)、つまりは天孫降臨とはトンボがクモを降して、その国土に文字通り飛んできたことを意味するというわけだ。また、トンボやクモの説話は天上の星々の運行とも関連していたという。つまり、友田先生は、日本神話を、実在の人物の行動と、動物(の精霊?)や天体を主人公とする自然神話との混交だったとみなしているわけで、これは一般に言われるエウヘメリズムとはかなり異なる考え方だ。


さらに友田先生は天孫降臨の地が九州の日向だという通説的理解を廃し、福井県三方郡美浜町にある大字の「日向」こそ、その地に他ならないという。さらに神話上の出雲も島根県ではなく福井県三方郡方面にあった。日向と出雲を同じ地域と考えてこそ、日本神話は無理なく理解できるというわけだ。


友田先生によると、日本国家を建てた民族は満洲の遼河下流域から黄帝暦をたずさえてやってきた(この黄帝暦が後世、和銅日本紀を編纂する際の暦法となる)。彼らはまず北陸地方に小国家を建設した(その文化は鳥浜貝塚遺跡からうかがえるという)。その事実を伝えるのがニニギの天孫降臨伝説であり、西暦前1122年に相当する。さらに、その子孫である神武天皇が即位したのは前660年だという(この即位年推定は『日本書紀』に依拠している)。


さて、本書収録の第2巻目次からうかがうに、友田先生は神武天皇の宮都を畿内大和ではなく、現滋賀県安土町に想定していたようだ。つまり神武東征とは現福井県内から、琵琶湖東岸への移動ということになる。また、第3巻目次からうかがうに、日本民族の祖先が遼河下流域から現福井県三方郡に天孫降臨するまでの中継地点としての「高天原」に現敦賀市を想定していたようだ。第3巻目次第1章第4節には「『ホツマツタヘ』の史料的価値」の表題も見え、晩年の友田先生が『秀真伝』に関心を持っていたこともわかる。


滋賀県に都した神武天皇の子孫がいかにして畿内に移り、さらに日本列島を統一していったか、その経緯を第4巻で説明する予定だったわけだが、肝心の第4巻目次には具体的な地名が登場しておらず、友田博士が実際にはどのように考えていたのか、知るすべもないのが惜しまれる。

惜しまれるといえば、もう一つ、本書は広島市内の地方出版社から自費出版されたものである。地元で10年以上も前に出た本を、今頃になって東京ではじめて手に取る、この巡り合わせもまた私にとって残念なことの一つだ。本書にはもっと早くにめぐりあっておきたかったものである。


先述したように友田先生は『日本書紀』の研究史上、それなりに有名な方だが、本書を読んだという人はあまり聞かない。高名な研究者の手になる「奇書」を発掘できたことを改めて感謝する次第である。
 ・・・と、思ったら、この本に基づいて、すでに現地調査している、という人がいた。

すごいご本が出版されました。敦賀を見直すチャンスです。。

長野正孝「古代史の謎は『海路』で解ける

港湾や運河の計画・建設に永年携わってきた著者が、「海路」の視点から古代史の謎に取り組んだ本である。魏志倭人伝の「水行十日、陸行一月」はよく知られていますが、歴史学者は文系の人々なので、当時の舟の種類や地形にもとづいた航海技術や海路などの視点はほとんどないといってよいのでしょう。歴史学的な文献の解釈ではなく、技術者の観点からの物理的可能性による解釈は、新しい地平への誘いになっていて大変興味深い。今までは自明のこととされていた感のある瀬戸内航路が、古代においては現実的なものでなく、むしろ日本海が鉄と翡翠の交易で繁栄する道であったという指摘は説得力があります。

丹後半島、敦賀京(倭京)、氣比(気比)神宮の重要性など、注目すべき論点が数多くみられる。航海王・応神帝の「海運業」や雄略帝の「瀬戸内海啓開作戦」、継体帝が拓いた「近畿水回廊」など、海路の観点から古代史を再解釈することによって、新しい古代史が浮かび上がってきてこの技術者の指摘を無視して通り過ぎることは、できないでしょう。

敦賀が古代史の主役に大抜擢!!!

『古代史の謎は「海路」で解ける』

 248ページ

「私は、大化の改新のというクーデターが起きる前まで、

交易で繁栄していた敦賀が日本一大きなマチであったと考える。

現在の氣比神宮の周辺の発掘によって大きな港の遺構が出ることは想像できる。

歴史学者が近畿大和中心の世界観である以上、敦賀、丹後など大和より大きく国際化された国々があったことを認めることは難しいようである。」


140ページ

「四世紀、前章で説明したように船の大型化と航海技術の進歩で、数日間連続の夜間航海もできるようになり、少しぐらいの時化でも沖合を船が走れるようになった。風と潮に乗って丹後半島の沖を越え、新天地の舞鶴から敦賀の沖に到達できるようになった。舞鶴から敦賀にかけて、川や谷を越えて近畿に抜ける海の路が船で繋がれた。(中略)敦賀の野坂山地の南には琵琶湖があり、畿内各地への物流拠点を押さえることになり、必然的に大きな経済圏を支配することになった。九州倭国や新羅との交易拠点となれば、新天地は莫大な利益がもたらされた。水運が至便な敦賀・湖北は、新しい王国が生まれる条件が整っていたのである。(中略)応神帝がこの巨大な敦賀王国を四世紀につくったことは多くの神社が帝を祀っていることからも明らかであるが、「日本書紀」にはまったく記述されていない。大和朝廷を近畿ヤマト国の天皇、河内王朝の祖とする系譜をつくりあげる意図があったため、敦賀の繁栄は、記紀には残さなかったと考える。応神帝を河内の王にしたいが故の作為である。」

 

 223ページ
「現代では日本人すら、「古事記」の神話や古代史の人物たちについては語れない。しかし、本書で見てきたように、一晩かけても語り尽くせない
 ような魅力的な題材が
詰まっているのだ。これが現代に必要な、「物語を自分達で考える」姿勢であろう。」

平成28年10月23日長野先生の講演会

敦賀の古代史を素材にまちづくりを考えるシンポジュウム「敦賀王国再現を夢見て」が開催されました。
「古代史の謎は海路で解ける」の著者長野正孝さんを招き「敦賀〜北ツ海から見た古代史〜失われた敦賀ブランド発見〜」と題し基調講演を聞きに行って来ました。

僕の座右の書。

< 推理小説なので読みやすい! >
<僕の古代史はこの本から>
< 敦賀の敦から敦煌。塩繋がり >
<継体天皇ではなく開化天皇>

天孫降臨の道(1990年) 本書は1986年筑摩書房の刊行。

ウキペディアで調べると、改題されたようです。
改題 『倭人と韓人―記紀からよむ古代交流史』(講談社学術文庫、2003年)

「天孫降臨の原義」以前に出版された「天孫降臨の道」に古代の敦賀が出てきます。古事記「開化天皇の条」の100人近い系譜の考察です。

この文書は手打ちなので、今日はここまで。

敦賀を見直す、・・ラストチャンス!!!

平成22年 氣比神宮御祭神應神天皇1700年式年大祭を斎行。
来年の2015年は、藤原武智麻呂が建立した氣比神宮寺1300年
6年後2020年は、日本最初の正史「日本書紀」1300年の佳節です。

        中森 博達著 「日本書紀の謎を解く」 中公新書 
持統朝に、続守言は巻14から執筆し巻21の終了間際に倒れ、薩弘恪は巻24から27を述作、
文武朝に、 山田史御方が述作を初め、 元明朝 に、紀朝臣清人が巻30を撰述し、
和銅七年 に、同時に三宅朝臣藤麻呂が潤色を加え、さらに 若干の記事を加筆し、
養老四年(720)に「日本書紀」30巻が完成。 
日本書紀には仲哀天皇の新婚のお住まいが氣比宮(氣比神宮)記述。
この巻第八<仲哀天皇>や巻第九<神功皇后>そして巻第十<応神天皇>は、

大宝二年(702)十月頒布された大宝令以降の文武朝に撰述された。
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