意欲作!みなかえ

民俗学者谷川健一氏「民俗学から見た記紀」

1989年6月発行の「古事記」「日本書紀」総覧の316ページに民俗学者谷川健一氏の民俗学から見た「記紀」があります。
副題<民俗学から眺めると、「記紀」の世界は今も息づいている。>

全文を打ち込みたいと思います。

「記紀を取り扱う方法」 民俗学者谷川健一氏

民俗学の大きな特徴、あるいは利点として、ひとつに問い直しができる、ということがあります。

どういうことかと申しますと、これは少しおかしいと思ったとき、現地に行ってもういっぺん聞き直しができる。
お婆さんに聞くことができるわけなんです。もっとも、最近はそれもなかなか難しくなってきましたが、民俗学の有利な点は、再認識、問い直しができた点にあったんです。

それと、民俗学の現象というのは、ある一個所にあるだけでなく、同じ現象が他にもあるということです。民族の現象として承認されるには、だいたい三個以上、同様の現象があった場合といわれますが、われわれはつねに、一個所だけの民俗現象ではなく、他にもそれがないかと、探し求めることをします。一個所しかないというのは、非常に不安定なのです。

ところが、「記紀」「万葉集」といわれる古典には、一個所しか出てこない場合もよくあります。だから、民俗現象として「記紀」などを扱うことは、たとえば柳田国男などは非常に躊躇しました。どうしても、現在から過去へということなわけです。

ところが、折口信夫などは、それと逆に古代から現代へと、「記紀」「万葉集」の事例を自分なりに分析していきます。非常に理論的な分析ですが、その折口も最晩年の「民俗史観における他界観念」においては、自分の進化論ふうなやり方を反省はしています。常世論に関してですけれども。

私自身も、「記紀」など古典を民俗として扱うには、非常な不安があります。折口流に古代から分析してやる方法と、柳田のように現在の民俗現象に重点を置く方法と、場合によってはこの両方の間で、私自身が揺れ動くときもあります。どちらか一方を、裁断することはできないんです。「記紀」について、このあと例をいくつかあげて、民俗学からの分析を加えますが、たんに「記紀」の記述のみでは、民俗学としては使えない。つねに確認する作業ーそれは科学的にも、民間伝承としてもーを、必要とします。机上だけでは証明できません。いろいろな採集の積み重ねのうえで、民俗という現象は確認できるということなのです。

渟田門はどこか。 民俗学者谷川健一氏

「日本書紀」仲哀天皇二年六月の条に、このような記事が載っています。

夏六月、天皇、豊浦津に泊ります。
皇后、角鹿より発ち行して、渟田門に至りて、船上に食す。
時に、タイ、多く船の傍に聚れり。
皇后、酒をタイにそそぎたまう。
タイ、酔いて浮かびぬ。
時に、海人、魚を獲て歓びて曰く、
「聖王のたまう魚なり」という。
故に、其の処の魚、六月に至りて、常にあぎとふこと酔えるが如し。其れ是の縁なり。

 

前半: 安芸国沼田郡か。 民俗学者谷川健一氏

神功皇后が熊襲を討とうとして、角鹿、今の敦賀から出発して、船で海を西の方に向かって航行する。そして、渟田門まできたとき、船の上で食事をした。

すると、鯛が船のそばに多く集まってきた。皇后は酒を鯛にそそぐと、鯛は酔っぱらって浮かんできた。漁師たちは、鯛をたくさん獲ることができて、喜んで、「これは聖王(神功皇后)が、私たちにくださった魚あ」といった。その魚は、六月になると、「傾浮(あぎと)ふこと」、つまり酔ったようにアップアップする、これは以上のようないわれがあるからだ。

この条は、だいたいこのような概略なのですが、この渟田門という場所がどこかが、古くからの問題だったのです。

ひとつは、安芸国(広島県)に沼田郡というところがある。安芸の人たちは、自分たちのところに引きつけたいから、この渟田門を沼田だという。
しかし、若狭の敦賀から瀬戸内海に向かうのは、航路としては不自然なわけです。それで、これは若狭の海岸を船で行ったにちがいないと、若狭の人たちは言うのです。

後半: 安芸国沼田郡か。 民俗学者谷川健一氏

この渟田門については、江戸後期の国学者、伴信友が、自分の友人を若狭の三方郡常神浦にやって調べさせています。
ところが、友人が村人に聞いても誰もわからない。そのうち、ある年老いた翁に出会って、その翁は「自分が若いとき、常神岬と敦賀半島の丹生浦との間の渡しをノタノトと呼んでいるのを聞いたことがある」というわけです。
伴信友の友人は、これを聞いて非常に嬉しくなって、「それは渟田門のことではないか」と、老人に書き示して重ねて聞いた。しかし、老人は、「自分は名前さえ書けないのに、どうしてそれを知っているか」と、不機嫌になって家に入ってしまった。
この話を、友人は伴信友に語りました。「若狭では、漁師たちは波が大きくうねるのをヌタ、またはノタと呼んでいるから、ノタノトはおそらく渟田門で、常神岬と敦賀半島の間あたりだ」。こう報告したのです。

伴信友は、「日本書紀」のこの記事を考えながら、その土地ではいまでも、常神浦から大飯郡の高浜にかけて、旧六月のころ、小鯛が集まって波の上に漂うのを漁師が獲るが、そのときにかぎって、これをマドロ小鯛と呼んでいるのを思いだした。マドロとは、目がトロトロとしてまどろんでいることをいいます。さらに伴信友は敦賀の人から、海が凪いで夕日が照りわたり、熱さが堪えがたい天候をマドロになった、ということを聞きます。そのとき、鯛が浮きあがるのをみて、網を下してこれを獲る。つまり、マドロの天候のとき鯛を獲るから、そう呼ぶ。伴信友はこう書き記しています。

さて、ノタは、民族語では波が大きくうねることをいいます。あるいはまた、石川県では、波をノタといい、波が白くなることを、「ノタが笑う」ともいいます。それで、渟田門とは、ノタノト、波の大きい場所だとわかります。だから、「日本書紀」の記事は、常神岬から敦賀半島の間の、ノタノトを指していることになります。文字の読めない老人が、伴信友の時代まで、ノタノトと呼んでいた、「日本書紀」のころからその時代まで、文字とは関係ない世界で、延々と民族の言葉としてそれが通用していたことがわかります。

交易・交通 楢磐嶋の交易:福井県史より。


日本霊異記「閻羅王の使の鬼、召さるる人の賂を得て免す縁」にみえるものである。奈良の左京六条五坊の楢磐嶋は、聖武天皇の時代に大安寺の修多羅分銭三〇貫を借りて、越前の敦賀津に行き、交易して購入した品物を運び、琵琶湖を船で運搬して帰る途中、急病にかかった。そこで船を留め馬を借りて帰ろうとして、琵琶湖西岸を走る北陸道を南下し山背の宇治橋に至ると、閻羅王によって自分を召しに遣わされた三人の鬼に会った。しかし、家に連れて帰り食事を用意し食べさせたので、鬼は同年生まれの人を磐嶋の代わりに召していったため、彼は助かり九十才以上まで長生きしたという。
楢磐嶋は大量の銭を借りて平城京から敦賀にまで出かけ、交易を行っている有力な商人であった。日本霊異記は、仏教の因果応報を説くため平安時代初め薬師寺の僧景戒によって著された仏教説話集である。しかし、そこにみられる話の背景はまったく荒唐無稽なものではなく、当時の状況を反映したものとみられている。磐嶋の実在性はともかく、彼のような遠距離を往来して交易活動を行う有力商人は実際にいたと考えてよい。
遠距離交易業者がめざしたのが敦賀であったということは、そこが大量の商品を仕入れるのに好都合の場所であったということを物語るものである。あるいは磐嶋は都で諸物資を仕入れて敦賀で売りさばき、それを元手に敦賀で品物を買い付けたとも考えられる。
越前における銭の未流通ということから想像される状況とはいささか様相を異にする場が敦賀であったと思われる。そこは日本海側有数の津であり、越前国内の物資だけでなく、沿海諸国の産物が集まってくる所であった。延喜式(上図の赤線)では北陸道諸国の物資が、敦賀津まで海路で運ばれてくることもあったのである。それは決して官物にとどまらず、交易をめざす私的物資も各地から敦賀にもたらされたことであろう。そして敦賀にはさらに、渤海をはじめ諸外国の物資がきていた可能性さえ考えられよう。渤海の使節が北陸道諸国に来着し、敦賀にはそれを迎える松原客館が設けられたような状況をみると、大陸や朝鮮半島から商人が敦賀に来航した可能性も大いに考えられよう。敦賀はそのように広範な地域の諸物資が集まり、それをめざして交易業者も集まってくる場であったのである。<福井県史より>

ヤマト勢力の浸透律令体制の整備 天智朝とコシ:福井県史より。


孝徳天皇が白雉五年(654)に難波長柄豊碕宮で死ぬと、宝皇女(皇極天皇)が斉明天皇として重祚する。斉明天皇六年(660)、百済の滅亡に際して、わが国は救援軍を送ることになるが、翌年、斉明天皇は九州の陣中に崩じて、皇太子中大兄皇子が遺志を継ぐ。天智天皇二年(663)、唐・新羅の連合軍に白村江で敗れ、朝鮮半島から全面的に撤退することになる。同六年、都が近江に遷される。唐・新羅をめぐる国際関係の緊張を考慮したためともいうが、それによって北陸が近く意識されるようになったことは事実であろう。
天智天皇の宮人の一人、越の道君伊羅都売は、加賀の豪族道君の出身であろう。彼女は施基皇子を生んだ。施基皇子の子白壁王は、のちに光仁天皇となる。光仁天皇は和銅二年(709)の生まれであるから、父の施基皇子はおそらく天智天皇の最晩年の出生であろう。したがって伊羅都売が召されたのも、近江遷都以後と推測される。
天智天皇七年七月、高句麗の使者が越に来着した。高句麗は同年九月、唐のために滅ぼされているから、滅亡直前の遣使ということになる。遣使の目的は明らかではないが、到着したのはおそらく広義の越前であろう。

けいさん(気比神宮)は越前。江戸時代から現代は嶺南。

朱鳥元年(686)、天武天皇は没し皇后が即位して持統天皇となる。
日本書紀持統天皇六年(692)九月癸丑条に、「越前国司、白蛾を献れり」とみえ、同月戊午条の詔に、「白蛾を角鹿郡の浦上の浜に獲たり。故、封を笥飯神に増すこと二十戸、前に通す」とある。これが「越前国」の初見である。
白蛾をしろきひひると読んで、蚕とする。僕は秘かに泉区の石灰岩と思っている。

持統天皇六年以前に越が三分割され、越前国が成立していたとされている。しかしすでに示したように、同十年三月甲寅条の『紀』に「越の度嶋の蝦夷」とみえるので、同十年に至っても越の三分割は完成せず、同六年の「越前」の呼称はのちの追記とする説もある。だが越前のみが成立して、残りの越中・越後にあたる地域は領域が確定せず、たんに越とよばれた時期がしばらくあったのではないかとも考えられる。『続日本紀』文武天皇元年(697)十二月庚辰条には、「越後の蝦狄に物賜うこと、各差あり」とあるので、このころには越後も成立していることが明らかである。もちろん越中も成立していたであろう。
『続日本紀』大宝二年(702)三月甲申条に「越中国四郡を分けて越後国に属く」とあり、この四郡は前述のように、頚城・古志・魚沼・蒲原の四郡とする説が有力であるから、それ以前の越後は、沼垂・磐船の二郡に、山形県の若干の部分(現在の庄内地方)を管轄するにすぎなかったであろう。しかし、和銅元年(708)、この山形県内の部分に出羽郡が設置され、同五年には出羽郡が分立して出羽国となり、越後の領域はほぼ現在の新潟県と等しくなった。なお初期の越前の領域は、敦賀・丹生・足羽・大野・坂井・江沼・加賀・羽咋・能登・鳳至・珠洲の一一郡より成っていた。このうち敦賀・丹生・足羽・大野・坂井の五郡のみがのちの越前の領域となる。

、・・・西郷説ではなく、阪下説ということか。

ウキペディア氣比神宮には、このような一文が載っている。

<西郷信綱は、この「魚(な)」と「名(な)」を交換したという説話全体が、「けひ(këfi)」という語の発生を、交換を意味する「かへ(kafë)」という語に求める1つの起源説話であろうとする。>

早速、古事記注釈を買って気比大神を読んでみると、

<阪下圭八「魚と名を易えた話」(月刊百科275号)参照。この論文は、気比大神の名易(なかえ)の話を初めて解き明かしたものとして注目される。>と、書かれてある。


  、・・・西郷説ではなく、阪下説ということか。

阪下圭八説

この話は「名」と「名」が「易へ」られた話ではなく「名(ナ)」と「魚(ナ)」が「易へ」られた話と読むべきであると主張する。

つまりイザサワケの神は、当初から自分の「魚(ナ)」と交換に新しい自分の名前をオオトモワケから頂戴することを欲しており、取り次ぎ役の建内宿祢は意図を取り

違え「名(ナ)」の交換であると誤解したものの、オオトモワケは神の真意を理解したために正確に対処した。

その結果鼻先に傷がついた(「魚(ナ)」に転じた)海豚と交換に「御食大神」の名前を贈答し、それによって「名」と「魚」の交換は完了したと読むべきだと主張する。

さらに三度も登場する「易」が鍵言葉であり、ケヒもカヘと同義に用いられる事例からみて、こちらにも趣向の二重性が認められるとする。

2011.12.14 北條芳隆教授 ブログより。

阪下圭八「魚と名を易えた話―古事記・説話表現の一様相」の検討
                             2011.12.14 北條芳隆
本論の要旨
 この話は「名」と「名」が「易へ」られた話ではなく「名(ナ)」と「魚(ナ)」が「易へ」られた話と読むべきであると主張する。つまりイザサワケの神は、当初から自分の「魚(ナ)」と交換に新しい自分の名前をオオトモワケから頂戴することを欲しており、取り次ぎ役の建内宿祢は意図を取り違え「名(ナ)」の交換であると誤解したものの、オオトモワケは神の真意を理解したために正確に対処した。その結果鼻先に傷がついた(「魚(ナ)」に転じた)海豚と交換に「御食大神」の名前を贈答し、それによって「名」と「魚」の交換は完了したと読むべきだと主張する。さらに三度も登場する「易」が鍵言葉であり、ケヒもカヘと同義に用いられる事例からみて、こちらにも趣向の二重性が認められるとする。
 こうした口承の言語技術を基盤とした説話を文字化すれば、その際に生じる混乱(『日本書紀』の編者が実際に混乱に陥って以降、宣長も含めて誤読や混乱を誘ってきた)もあれば、文字化しなければ表現しえない趣向もある。本説話は前者であり、文字化したことによって後世の読者に混乱を与えたものと解釈できる。しかし「魚と名を易しにより神の名をカヘの大神まをす。今に気比の大神とまをす」(17頁、上段12行)としては、謎解きを鼻先にぶら下げたような始末となるので、それとなく手掛かりを示すに留めた可能性が大である。

主張の重要性
 音声言語の多義性が異質物を媒介・結合させ、その間の飛躍ないし意外な展開が話の趣向となって聞き手の興味を誘う構造への洞察はきわめて明快。「この説話の趣向が理解されなかったのは、文字表記の面だけに関わり、話を音声にいったん置き直し、それに耳を傾けることを怠ったため」(13頁上段)との表記は、西郷信綱氏の注釈に引き継がれる。が、西郷氏の解説が歯切れの悪いものであるのに対し、こちらの指摘のほうがはるかに説得力をもつ。

問題点 
 阪下論の基本構図の妥当性を認めるが、下線を引いた部分は果たして正しい理解か。その際、建内宿祢に発した次の台詞が問題となる。
?「ワガ・ナ・ヲ、ミコノ・ミナ・ニ、カヘ・マクホシ」
?「ナ・カヘシ・マヒ、タテマツラム」あるいは「ナ・ニカハル、マヒ・タテマツラム」
 阪下説は?を「我が名を(魚との交換に)御子による命名のもとで易えたい」と読み、神の側から御子との間の関係更新を上申した台詞と理解し、?を「命名の返礼として弊を奉りましょう」とする。しかし?は「ワガナ」と「ミコノミナ」が等値の関係にあるので、「ミナ」のみを動詞化して読むことは可能なのかどうか疑念が残る。あくまでも神の台詞は名前の交換の申し出であり、その返礼としての弊を用意する意にとるべきではないか。
 つまりここでの趣向は、名(ナ)と魚(ナ)の語呂合わせをとらえて神の申し出を逆手にとりつつ、御子が神の名を与えるという関係更新の成功譚であったのではなかろうか。

(この問題点については、授業における議論の過程で、神が語呂合わせの謎かけを御子側に発し、建内宿祢は謎かけの意味を理解できなかったものの、オオトモワケは語呂合わせを正しく理解できたと解釈することですべての意味が通るとして決着)

パブー上で公開の前川治氏  『古事記』仲哀天皇段の「名易え」説話

『古事記』中巻に記されている仲哀天皇の段には、第15代天皇である応神天皇の出生から即位までの物語が語られ、神秘性に満ちた内容になっている。その中に、即位前の応神が角鹿(つぬが)(現在の敦賀市域)で伊奢沙和気(いざさわけ)大神と「名易え」をした、という説話がある。この「名易え」説話に関して、これまでにいくつかの研究が試みられているが、難解な内容であるため未だに明確な結論は出ていない。『古事記』の記述によると、神功皇后は新羅遠征の後、筑紫にて太子(後の応神天皇)を生み、倭に帰る途中、反逆した忍熊王と戦い、これを攻め亡ぼした。その後、大臣の建内宿禰は太子を連れて、禊のために近江と若狭国を巡歴し、越前国の角鹿に仮宮を造り、そこに滞在した。その夜、伊奢沙和気(いざさわけ)大神が宿禰の夢の中に現われ、「わが名を御子(太子)の名に易えてほしい」と告げた。宿禰は祝福してこれを受け入れたので、大神は、「明日の朝、浜にお出かけなさい。名を易えたしるしの贈物を差し上げましょう」と重ねて告げた。翌朝、太子が浜に出てみると、鼻に傷のついた入鹿魚(いるか)が、浦いっぱいに寄り集まっていた。太子は、「神が私に食料の魚を下さったのだ」と言った。それで、伊奢沙和気大神はその御名を称えられて御食津(みけつ)大神と呼ばれるようになった。この御食津大神は、今は「気比大神」といわれている。また、傷ついた入鹿魚の血が臭かったため、入鹿魚が寄り集まっていた浦を血浦というが、今は角鹿と呼んでいる。以上が「名易え」説話の概要である。ここでは「名易え」後の太子の名については不明である。『日本書紀』でこの話に相当する記事は、神功皇后摂政13年の2月8日条に見られる。そこでは神功皇后が武内宿禰に太子の角鹿・笥飯大神参拝の随伴を命じた、とある。また、『書紀』の応神天皇即位前紀の割注に次のような記事がある。応神天皇が皇太子であったとき、越国に行って角鹿の笥飯大神にお参りになったが、そのとき大神と太子とが名を相易えた。それによって、大神は去来紗別(いざさわけ)神といい、太子を誉田別(ほむだわけ)尊と名付けたという。それだと大神の名は誉田別神、太子の元の名は去来紗別尊ということになる。しかし、この事に関して『書紀』では、「けれどもそういった事実はどこにも見られず、いまだつまびらかでない」と述べている。この事は「名易え」説話を難解にしている原因の一つになっている。両者を比較してみると、『古事記』における太子の角鹿滞在は、忍熊王との戦いで付いた汚れを禊で落とすため近江、若狭を巡歴した時の話となっている。一方『書紀』には角鹿への旅が禊であるという記述はない。『書紀』における角鹿参拝は、神功皇后の新羅遠征の成功と太子の皇位継承の決定を神に報告する事が目的であった可能性がある。
 この様に、『古事記』と『日本書紀』を比較してみると、「名易え」説話を最も難解にしている要因は、「名易え」後の太子(応神天皇)の名が不明である点にある。ホムダワケという太子の名が「名易え」後イザサワケに変っていれば明確なのだが、そうなっていない所に「名易え」説話の難解性がある。
そこで、? 太子と気比大神との「名易え」は、どういう意味であるか。? 『古事記』における一連の応神関係の説話の中で、 「名易え」はどう位置付けられているか。 ? なぜ角鹿で「名易え」が行なわれたのか。 以上の三つの問題を提起する事にする。 本研究は3点の問題を中心に、これまでの主要な研究を整理した上で、今までほとんど注目されていなかった民俗学や文化人類学の視点も取り入れて、「名易え」説話の成立背景を考えていく事にする。
 
2 「名易え」説話に関する諸研究
本章では、これまでに出された諸研究を整理して、「名易え」説話の成立背景にある課題を探っていくことにする。
本居宣長は『古事記伝』の中で、「名易え」は太子(後の応神天皇)の名を気比大神に差し上げるという意味であり、『書紀』の記述は誤っていると述べた。
竹野長次氏は、『古事記』の「名易え」説話について、太子が神の名を得る事、すなわち神の霊威を身につける事により、太子の霊威が高まったと考え、「名易え」の意味を、気比大神の名を太子に差し上げて太子の名にする、と解した。そして、「名易え」が角鹿で行なわれた理由は、敦賀地方の土地神が神名を奉った事で、敦賀地方の豪族が王朝へ帰順した事を表現しているものと考えた。
吉井巖氏は、『古事記』の説話の中に「名易え」の結果を示す記述がなく、最後は魚を賜る話になっている事について、説話中の「ナ」は魚と名のどちらにも読める事から、この話の原型は、太子が魚を賜った話であり、これが名を賜った話に利用されたためであるとした4)。また吉井氏は、太子が角鹿で「名易え」をした理由については、継体天皇が応神天皇の子孫と称して越前から大和へ進出した事実から考えた。『日本書紀』によると、継体天皇の本拠地は、若狭、越前にあった。そこで同氏は、角鹿はその中心に位置しているため、角鹿地方の漁撈民の間で信仰されていた地方神の伝承が、継体天皇の始祖伝説に取り入れられたので、太子は角鹿で「名易え」をしたのだと考えた。
三品彰英氏は、「名易え」に関して、太子の元の名は「ミケツ」あるいは「ケヒ」であり、気比大神「イザサワケ」であると考え、この両者の交換であると解した。また、三品氏は太子の「名易え」の性格について、典型的な成人式の儀礼であり、神との交霊による新しい人格の成立及び新天皇の出現であると考えた。角鹿で「名易え」が行われた理由として、イザサワケノ大神が、太子の母である神功皇后の祖先神である事から、祖先神との関係を指摘した。
塚口義信氏は、民俗の事例から、「名易え」は、成年式における改名儀礼の神話的表現であると見なした。角鹿で「名易え」が行なわれた理由として、応神の母系である近江の豪族、息長氏との関係を指摘した。妻問婚の時代であれば、子は母方で養育され、成年式も母系の神社で行なわれたのは自然であろうと考えたのである。
倉塚曄子氏は、「名易え」の後の太子の名前は不明確であり、『応神紀』の割注の記述も、『日本書紀』の編者にすら意味がよく分からなかった事を示しているので、「名易え」の持つ本来的な意味はよく分からない、と述べている。倉塚氏は、説話中での「名易え」の位置付けについて、太子の再誕であると考えた。同氏は、成年式において、「名易え」は大人として再誕するために必要な儀礼的手続きであるので、『仲哀記』中の応神天皇の物語は、再生復活儀礼に枠どられた新たな王の誕生の物語であると述べている。さらに同氏は、角鹿で「名易え」をした理由について、大陸交通の裏玄関に位置している角鹿を、大陸交通の表玄関・筑紫で誕生した新時代の初代王応神が、第二の誕生をとげた場所にするためであったと考えた。
阪下圭八氏は、『古事記』本文を口誦面でとらえ、ナは「魚」のナと「名」のナのどちらにもとれる事から、夢の中の神のお告げは一つの謎かけであったと考え、「名易え」は、気比大神の魚と太子の名前との交換と見なした。また、角鹿での神託は、成年式の試練であり、後に続く母后の歓喜の歌は、一人立ちした太子を祝うものである事から、「名易え」説話は応神の第二の誕生譚であったと考えた。角鹿での「名易え」の理由に関して、角鹿は、宮廷の食料が献上される場所であり、同時に、大陸交通における重要な場所であったため、そこの守り神である気比大神を、海の彼方の金銀の国を神授された太子に結び付けるためであったと述べている。
尾崎和光氏は、文中のタケノウチノスクネの言葉に注目し、太子の名を易えたのでなければ不自然であるとして、「名易え」は、気比大神が太子に名を与えたという意味であると考えた。そして、この「名易え」説話の部分は、独立した説話的性格を持ち、太子が土地の霊を身につけて支配者の資格を得る話であったと考えた。太子が角鹿で「名易え」を行なった理由として、角鹿は神功・応神にとって古い縁のある重要な場所であり、その土地に関係の深い、古い伝承が伝えられていたからであろうと推察した。
田村克巳氏は、三品氏の説を受け、「名易え」は太子にとっての成人式であると解した。角鹿で「名易え」を行なった理由は、神功・応神説話の構造から推定して、角鹿は王朝にとって新たな王の出現する場所であったからだと考えた

以上、「名易え」説話に関しての主要な研究とその成果をまとめてみると、「名易え」は、太子の成人儀礼として位置付けられるという事で見解が共通しており、「名易え」が角鹿で行なわれた理由として、神功・応神の先祖との関わりがみられる事などをあげる事ができる。しかし、なぜ「名易え」を行なったのかについては、太子自身の改名、太子の名と気比大神の名の交換、あるいは気比大神の魚と太子の名の交換などといった諸説がある。その原因は、「名易え」の後の太子の名と気比大神の名について不明である事にあろう。

木簡の発見

福井県史より「部民」とは

優婆塞(うばそく)大神黒痲呂

天平17年

大神黒痲呂 44歳 

越前国敦賀郡与祥郷

戸主神人根痲呂戸口 

優婆塞とは天平17年(745)以降の優婆塞貢進文の特徴は、読経・誦経・浄行などの信仰内容を具体的に記さないことである。

これは大仏造立の労働力を確保するため仏道修行をしなくてもこの事業に加わることで得度を認めたことによる。