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古代角鹿津

古代角鹿津

福井県史より。

さて、次に越前国の諸郡の郷(里)の比定について述べることにするが、のちの加賀国・能登国に属する地域については除外することにしたい。まず敦賀郡からはじめるが、『和名抄』(高本)によれば、伊部・鹿蒜・与祥・津守・従者の五郷、『和名抄』(急本)にはそれらに加えて神戸郷がみえる。

伊部郷は、天平神護二年(七六六)十月二十一日付「越前国司解」(寺四四)にみえ、奈良時代に存在したことが確かめられる。『延喜式』神名下の敦賀郡の項に「伊部磐座神社」がみえ、これは丹生郡織田町岩倉の地にあったと考えられているから、織田盆地一帯をその故地としうる。敦賀郡の郷としては北に片寄りすぎているようにもみえるが、『延喜式』には「織田神社」「天利劔神社」が敦賀郡の項にあることからわかるように、古代には織田盆地は明らかに敦賀郡に属していた。なお、織田町の東にある朝日町の佐々生からは「敦賀」の墨書銘を有する須恵器が出土している(「県内出土墨書土器一覧表」『資料編』一)。敦賀郡がこのように現在よりかなり北までのびており、丹生山地の多くが敦賀郡に属していたのは、敦賀津を中心とする海上交通を通じて、海岸部とその東側の山地一帯が一つのまとまりのある地域として歴史的に形成されてきたことを反映しているのではないかと考えられている。
 鹿蒜郷は、『和名抄』(高本)では「加比留」、『和名抄』(急本)では「加倍留」と読んでいる。この郷名も「国司解」(前掲「越前国司解」の略称、以下同じ)にみえ、奈良時代から存在したことがわかる。日野川上流には鹿蒜川があり、その流域を含む今庄町西部一帯が故地と考えられる。
 与祥郷は、天平十七年九月二十一日付「仕丁送文(あるいは優婆塞貢進文)」にこの郷から貢進された大神黒麻呂なるものがみえる(文一一)。『和名抄』には訓を欠くが、「ヨサカ」と読んで、敦賀市越坂の地をあてる説があるが疑問である。永禄元年(一五五八)五月一日付「天野景重寄進田地請文」(善妙寺文書『資料編』八)に「与祥村」、同年六月五日付「善妙寺寺領目録」(同文書『資料編』八)に「よさ村」がみえ、これは敦賀市街の東にある「余座」の地と考えられている。この地域が古代の与祥郷であろう。なお、長屋王家木簡に「江祥里」がみえることが注目される。すでにこの郷(里)が八世紀前期に存在したことがわかるほか、先に与野=江沼評の銘文須恵器について述べた、与=江の関係がここでも実証できそうである。
 津守郷も「国司解」にみえる。位置については、敦賀市道口・長沢のあたりと考えられ、名称より敦賀津の管理にかかわる施設が存在したことが想定されている。
 従者郷は『和名抄』に付せられた訓より、「シトムベ」または「シトム」と読んだらしい。『日本書紀』皇極天皇三年(六四四)十一月条に、貴人の従者である「賓従者」に「シトムヘ」の古訓がみえる。『和名抄』(急本)では「従省」とするが、「従者」の誤りであろう。「国司解」には「質覇郷」がみえるが、『和名抄』で備後国御調郡の「佳質」郷を「加之止」、伊勢国朝明郡の「訓覇」郷を「久流(留)倍」と読んでいることから考えると、「質覇」は「シト(ン)ベ」と読んだことが明らかであり、これは従者郷と同一のものである。式内社の「質覇村峰神社」が武生市日野山山頂にあったと考えられ、また中世の「徙都部郷」が日野川上流域一帯に比定されているから、日野山山麓以南の日野川上流域が郷の故地であろう。なお、後述するように丹生郡にも従者郷があったが、郡界をはさんで隣接していた可能性が高い。
 神戸郷も「国司解」にみえ、奈良時代から存在した。気比神宮の神戸とかかわらせて論じられることが多い。『日本書紀』持統天皇六年(六九二)九月戊午条に、「白蛾」を「角鹿郡浦上之浜」で獲たので気比社に封戸を増し与えた記事があることから、浦上の地を敦賀湾沿岸として神戸郷の地をそこに比定する説があるが、決め手に欠ける。

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天武朝に地方の行政組織が全国的規模で動き出したと推定されている。
701年(大宝元)大宝律令で、日本国内は国・郡・里の三段階の行政組織に編成され、
その基礎となる戸は、正丁(せいてい)成年男子を三丁ないし四丁含むような編成を編戸(へんこ)といい、一戸一兵士の軍団兵士を選ぶ基礎単位になった。地方は一般に国、その下に郡、さらにその下に里を設ける行政組織に編成され、それぞれ国司・郡司・里長が置かれた。そのため国郡里制(こくぐんりせい)と呼ばれる。里は、715年(霊亀元)に郷に改め、郷を2、3の里に分ける。国は大区画であり、郡は中区画である。郡は大宝令(701年;大宝元年)以前は評と呼ばれた。地方の役所は官衙(かんが)といい、国府(国衙)・郡家(郡衙)といった。

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