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必見1700年式年祭

平成22年は、氣比神宮の御祭神第15代應神天皇様が崩御されて1700年の節目であります。

崩御日でありました先般4月1日には、宮中・皇霊殿及び大阪府羽曳野市の應神天皇山陵で式年祭のが執り行われましたとともに、應神天皇を祀る全国の旧官國幣社10社(宇佐神宮・石清水八幡宮・筥崎宮など)には、天皇陛下の格別の思し召しにより幣帛料奉られ、式年大祭が斎行されました。

応神天皇1700年式年大祭奉幣祭

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日本書紀ってなんだ!

 中森 博達著 「日本書紀の謎を解く」 中公新書 より
     
  持統朝に      続守言巻14から執筆し巻21の終了間際に倒れた。

           薩弘恪巻24から27を述作した。

   文武朝        山田史御方述作を初め、

   元明朝        紀朝臣清人巻30を撰述し
   和銅七年  

   同時に        三宅朝臣藤麻呂潤色を加え、さらに

   若干の記事を加筆し、養老四年(720)に「日本書紀」30巻が完成。 

 日本書紀・巻第八<仲哀天皇>第九<神功皇后>第十<応神天皇>は、

 大宝二年(702)十月頒布された大宝令以降の文武朝に撰述。


氣比神宮主祭神<仲哀天皇>

巻第八・足仲彦天皇(たらしなかつひこすめらのみこと)<仲哀天皇>
     足仲彦天皇は日本武尊の第二子なり。


仲哀天皇二年正月 気長足姫尊(おきながたらしひめみこと)を立てて皇后とされた。
      
      二月 角鹿に行幸され、行宮を建ててご滞在になった。これを笥飯宮という。
      
      三月 熊襲国を征討しょうと穴門に幸す。使いを角鹿に遣わし皇后に勅す「角鹿を        
         出発して穴門で逢うようにしなさい。」
      
      六月 天皇は豊浦津に泊まられた。皇后は角鹿から出発してヌタノトに至り船上で
         お食事をされた。その時鯛がたくさんお船のそばに集まってきた。  
         皇后はお酒を鯛に注がれた。鯛はたちまち酔って浮かび上がった。その時、
         海人は大量にその魚を捕る事ができて、歓喜して「聖王が下さった魚だ」と
         言った。そこでヌタノトの魚が六月になると、きまって海面に出て酔った
         ように口をぱくぱくさせるのは、これがその由縁である。

仲哀天皇八年九月五日
群臣に詔して、熊襲を征討することを相談している時に、神は皇后に乗移り、神託を下した。   「新羅には目にも眩い金銀や彩り美しい宝物が沢山ある。もしもよく私をお祭りしてくださるるならば、まったく刃を血塗らずして、その国は帰服するだろう。熊襲も帰服するだろう。」      天皇は、神の言葉を聞かれて、疑いの心をもたれた。「私があまねく見まわしたところ、海だけがあって国はなかった。どうして大空に国があろうか。いかなる神が徒に私を欺くのか。わが皇祖の諸天皇たちは、ことごとく天神地祇をお祭りしてきた。どうしてそれに漏れた神などおいでになろうか。」その時、また、神は皇后に乗移り、神託を下した。「私の言葉を謗られるのか。天皇よ、最後まで信用されないのならば、あなたはその国を得ることがおできにならないだろう。たった今皇后が初めて身ごもられたその国は、その御子が得られることになろう。

仲哀天皇九年二月五日
天皇は突然体力が弱り萎えられて、翌日崩御された。(お歳は52歳。神の言葉を取り入れられなかったので、早く崩御されたのだとわかった。)皇后と大臣武内宿禰は天皇の喪を隠して発表しなかった。皇后は、大臣と中臣烏賊津連・大三輪大友主君・物部胆昨連・大伴武以連に詔した。密かに天皇の遺骸を納め、武内宿禰に付託して、海路より穴門に遷して豊浦宮で殯をを行い、喪を秘して灯火を用いられなかった。この年に、新羅征討に兵を出したので、天皇を葬りまつることができなかった。

氣比神宮略記:由緒沿革より

仲哀天皇(氣比神宮本殿の歴代天皇絵画より)

伊奢沙別命は、笥飯大神、御食津大神とも称し、二千有余年、天筒の嶺に霊跡を垂れ境内の聖地(現在の土公)に降臨したと伝承され今は神籬磐境の形態を留めている。上古より北陸道総鎮守と仰がれ、海には航海安全と水産漁業の隆昌、陸には産業発展と衣食住の平穏に御神徳、霊験著しく鎮座されている。仲哀天皇は後即位の後、当宮に親謁せられ国家の安泰を御祈願された。神功皇后は勅命により御妹玉妃命と武内宿禰命とを従えて筑紫より行啓せられ、親ら御参拝された。その時に笥飯大神が玉妃命に神憑りして「天皇外患を憂ひ給ふなかれ、兇賊は刃に血ぬらずして自ら帰順すべし」と御神託があったという。文武天皇の大宝二年(702)勅して当宮を修営し、仲哀天皇・神功皇后を合祀されて本宮となし、後に、日本武尊を東殿宮に、応神天皇を総社宮に玉妃命を平殿宮に武内宿禰命を西殿宮に奉斎して「四社之宮」と称した。明治二十八年三月二十六日に神宮号宣下の御沙汰に依って氣比神宮と改められた。延喜式神名帳に「越前國敦賀郡氣比神社七座並名神大社」とあり、中古より越前國一ノ宮と定められ、明治二十八年に官幣大社に列せられ、一座毎に奉幣に預かることとなった。当神宮の神領は持統天皇の御代より増封が始まり、奈良時代を経て平安時代初期に能登国の沿海地帯は当神宮の御厨となった。

氣比神宮の長命水は、豆乳を美味しくします。

     福井県敦賀市には、2000年を誇る官幣大社氣比神宮があります。

    御神徳 仲哀天皇・神功皇后・応神天皇・武内宿禰尊の御神徳 無病息災延命長寿
 
    (御長寿 仲哀天皇52歳・神功皇后100歳・応神天皇110歳・武内宿禰300歳)


    氣比神宮・正札         氣比神宮・長命水

                       
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