なぞは解けた!津守郷

さくら〜満開  <ランドマーク岡山>

平成22年4月10日撮影

古代角鹿津とランドマーク<岡山>

江祥里は大蔵神社付近・松原駅は剱神社付近・津守郷は椎前神社付近か?付近の字を探ると岡山が。

津守郷の中心は岡山(赤色)か!

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岡山

津守郷風景

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右の小高い木々の岡が岡山・左の岡が宮山!

角鹿郡の海は真北を向く!

御子神の二社は北面を向いている。その神さまは荒御魂そして擬領(おおみやつこ)神社乃ち宗教的國造の・・

シイサキ神社

御祭神は香取神。物部廣田と物部入鹿の御祭神に間違いない!!

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津守郷道口

太閤検地には!
慶長三年(1598)
西福寺古文書には!
北朝貞和貮年(1346)
津守郷戸主物部廣田戸口入鹿
天平八年(736)木簡

天平十四年八月五日秦下嶋麻呂

         続日本紀   < 聖武天皇 >

天平十三年春正月一日 天皇が初めて恭仁宮(万葉集木簡出土)において朝賀を受けられた。
(741)      宮の垣がまだ完成していないので帷帳を引き回らして垣のかわりとした。       

天平十四年八月 五日 天皇は詔して造宮録(さかん)・正八位下の秦下嶋麻呂に従四位下を授け、
(742)      太秦公(うずまさこう)の氏姓
                      銭百貫・あしぎぬ百束・麻布二百端・真綿二百屯を賜わった。
           恭仁の大宮の垣を築造したからである。               

天平十七年五月 三日 造営輔(すけ)・従四位下の秦下嶋麻呂を遣わして
 (745)           恭仁宮を掃除させた。                               

天平十九年三月 十日 従四位下の秦忌寸嶋麻呂を長門守に任じた。
(747)
 同  年 六月 四日 長門守・従四位下の秦忌寸嶋麻呂が卒した。                  

天平二十年五月二十日 右大史・正六位上の秦老ら千二百余戸に伊美吉(いみき)の姓を賜った。
(748)

天平神護二年(766)越前国司解には!

     敦賀郡津守郷戸主秦下子公痲呂である。

             秦下を名のる唯一の人物である。

             正倉院文書など古文書や木簡から未だ

           この秦下子公痲呂以外存在しない。

             
秦下一族の本貫地は敦賀だ。

               一方、
天平八年の木簡の
物部廣田は三十年後の

                  天平神護二年(766)質覇郷戸主として

                  名な東大寺領荘園関係文書に現れる。

   
   
 戸口物部入鹿は! 越前国にはもう一人の入鹿が、・・・

敦賀絹掛大橋

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塩職人の親方の墓!!

< 塩作りの親方の墓・・、え! >
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< 塩作りの親方の墓だ!! >
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