意欲作!角鹿直綱手

正倉院古文書正集 第二十八巻越前国郡稲帳

奇跡的な資料として、天平四年度(732)の越前国郡稲帳をご紹介いたします。
郡稲は、地方諸国の財源の一つであり、国内で恒常的に必要な諸経費や進上品の購入などに充てられた。その収入と支出の詳細・残高等を記したのが郡稲帳です。越前国全体の総計部と、敦賀・丹生・足羽・大野・坂井・江沼・加賀・の集計部が断続的に残っています。紙面には朱印「越前国印」が捺されています。
驚くべきは、< 郡司 少領外従八位上勲十二等 角鹿直綱手 >と書かれてあることです。

角鹿直綱手の直筆でしょうか?
紙継目裏には「越前国郡稲帳天平五年潤三月六日史生大初位下阿刀造佐美麻呂」の墨書があるので、どうも違うみたいです、・・残念!

角鹿直綱手郡司の少領外従八位上勲十二等について。

律令国家は、一般農民である公民一戸から一人を徴兵する大規模軍隊を保持していた。
一戸一兵士とした場合、全国総戸数約20万戸から徴兵された律令国家の総兵力は約20万人に達した。
徴兵された兵士は基準兵力量1千人の軍隊に配属され、交替で年間60日間「陣法」と呼ばれるマニュアルによって画一的訓練を受けた。歩兵集団戦術を主体とする律令軍隊において、訓練の中心は号令どおりに整列、行進するマスゲームであった。徴兵制軍隊における兵士は、公的訓練を施すことによって製造されるものである。装備も規格生産された官給武器であった。
徴兵された兵士の名簿は国司によって毎年定期的に、国内所在の兵器、公私牛馬・公私船舶を登録した帳簿と共に中央の兵部省に提出された。
兵部省は国司から提出された帳簿を通して全国の軍事力データーを集中管理していたのである。
いざ、戦争が決定されると兵部省は政府=太政官の指示を受けてデーターを元に動員兵力量・諸国割り当て量を算出する。天皇の動員令を受けて将軍の指示の元、作戦行動へと進んでいく。
日本は百済救済戦争に敗北した敗戦国であったが、その後の朝鮮半島支配をめぐる新羅・唐の全面戦争の中で、新羅は背後の脅威を除くために日本に朝貢するようになった。この新たに始まった統一新羅との朝貢関係を維持・固定する事、朝貢の廃棄を目指す新羅に朝貢を強要し続ける事、これこそが律令軍制建設・保持の目的であった。日本律令国家は「東夷の小帝国」であり、軍国体勢国家だったのである。実際にその兵力を行使する機会はなかったが、760年代対新羅強行路線をとった藤原仲麻呂の新羅侵攻計画は実行直前まで準備が進められた。
編戸制と班田制は律令国家の公民支配の根幹であるが、この仕組みによってはじめて一戸一兵士の軍団兵士制=律令軍制の創設が可能になったのである。また兵士は庸・雑徭が免除されていた。庸は中央での労働雇用財源であり、雑徭は60日間の公共土木工事への強制労働であった。律令国家は莫大な有効労働力を犠牲にして制度を維持してきたのであるが、この巨大軍隊を成立させた中央集権的統制システムは、同時に平城京、東大寺・大仏などの国家的記念碑の建設を可能にした、地方の富を中央に一極集中するためのシステムでもあった。
このシステム自体は唐に倣い、完全な軍事統制をめざすものであったが、現実には雑徭ですら逃亡が多く、また逃亡者への追跡に中央は多くの手をとられ、実質は奈良時代末期には上記を成した律令制度そのものが形骸化していった。わずか100年足らずの制度ではあったが、軍事力が一度も戦争に使われず多くの寺社建設や土木工事に使われていったのは、いかにも闘争忌避で日本的ではある。律令制という形態や膨大な軍隊、資金をつぎこんだ唐式の建物、それら全ては新羅や唐に対する精一杯の威嚇であり、戦わずして守る日本人の英知だったのかもしれない。

ネットで系譜を調べたら、角鹿直綱手の次は嶋万呂ですが、・・・・

【角鹿国造】
成務朝、日子刺肩別命の子建功狭日命が角鹿国造に任じられ、孫の玉手に角鹿直を賜姓される。後裔は大化改新後、敦賀郡司を世襲する。 平治の乱で角鹿時経は討ち死に、孫の遠能は鶴岡を称し、曽孫の辰秀は足羽庄の下司職となり、子孫は朝倉家に仕える。

1300年の時を越え、、木簡が・・・

遺跡名 平城京左京三条二坊一・二・七・八坪 長屋王邸
発掘次数 193E 所在地 奈良県奈良市二条大路南一丁目
調査主体 奈良国立文化財研究所平城宮跡発掘調査部
地区名 6AFITE11 遺構番号 SD4750
本文 江祥里/戸主角鹿直綱手/戸口海直宿奈□□〔万呂ヵ〕調三斗‖
寸法(ミリ) 209,31,5 型式番号 033 形状  
樹種   木取り   内容分類 荷札
出典 城25-20下(246) 木簡番号 0
和暦   西暦  
国郡郷里 江祥里
人名 角鹿直網手・海直宿奈(万呂)

越前国印で検索されたので少し手直ししました。(2016年1月26日)

長屋王家木簡の年代は710年(和銅三年)から717年(霊亀三年)頃まで、715年(霊亀元)に郷に改めているので710年から714年のと絞り込める。

郡司角鹿直綱手の強運は、計り知れない。

そして、僕はもう一つの木簡「天平八年・津守郷・物部廣田・入鹿」親子のその後を知ることとなる。