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北陸道総鎮守気比神宮

気比神宮の歴史

692年 持統天皇6年氣比神が、天皇より神領封戸20戸を加増される。
712年 古事記
715年 藤原武智麻呂が氣比神宮寺を、建立。
720年 
日本書紀
785年 最澄が氣比神宮で、求法を祈願。
788年
 最澄が御子神林神社の霊鏡を、比叡山延暦寺に奉遷。
804年 空海が氣比神宮に、宝刀を奉納し渡海安泰祈願。
807年 空海が氣比神宮に、大般若経を神庫に奉納。 
810年 空海が勅により、氣比神宮の造営奉行となる。
816年 空海は高野山を請い、勅許を賜る。
816年 空海が御子神金神社の霊鏡を、高野山金剛峰寺に奉遷。
828年 采女角鹿直福貴子が、正税稲500束を給う。
835年 気比神が正三位勲一等。 
838年 氣比神宮寺の修造が始まる (〜845年)。
850年 気比神が正二位。
855年 氣比神宮寺に、常住僧を置く。
858年 氣比神宮寺に、仏像造立料として稲一万束を給す。
858年 気比神が従一位。
860年 氣比神宮寺に、十僧を置く。
867年 角鹿直真福子が、外従五位に叙せられる。
893年 この年までに正一位勲一等

平成22年 氣比神宮御祭神應神天皇1700年式年大祭を斎行。

来年の2015年は、藤原武智麻呂が建立した氣比神宮寺1300年
6年後2020年は、日本最初の正史「日本書紀」1300年の佳節です。

        中森 博達著 「日本書紀の謎を解く」 中公新書 
持統朝に、続守言は巻14から執筆し巻21の終了間際に倒れ、薩弘恪は巻24から27を述作、
文武朝に、 山田史御方が述作を初め、 元明朝 に、紀朝臣清人が巻30を撰述し、
和銅七年 に、同時に三宅朝臣藤麻呂が潤色を加え、さらに 若干の記事を加筆し、
養老四年(720)に「日本書紀」30巻が完成。 
日本書紀には仲哀天皇の新婚のお住まいが氣比宮(氣比神宮)記述。
この巻第八<仲哀天皇>や巻第九<神功皇后>そして巻第十<応神天皇>は、

大宝二年(702)十月頒布された大宝令以降の文武朝に撰述された。

室町時代の終り頃の絵図と解説しているが、果たして!

現存する氣比神宮古図です。
東に大鳥居、西に西門四足、武徳殿。
神宮寺や栄梅(菅原道真の御手植え)がある。

慶長八年(1603正月廿一日中納言源秀康卿寄附神領之書面がある。<氣比大菩薩社領敦賀郡内津内分之内を以て高百石之事寄進>百石では、無理のようだ。やはり、江戸時代以前の絵図と確かめられる。

拡大画像

古図の本宮
手造り本宮
古図の七社之御子
手造り七社之御子
やはり手造り二社
土公はどこ?
神宮寺・角鹿神社
敦賀市立博物館平
成二十年度特別展
研究紀要第23号

氣比神宮社記から検討すると・・・

氣比神宮社記によると、元亀元年(1570)3月織田信長が神宮及び諸殿舎を焼き

4月5日水が渇き戦死者が多く終に落城。金ヶ崎城主郡司朝倉景恒は府中へ敗走と記す。

福井県史は、元亀元年4月25日敦賀郡手筒城と金ヶ崎城を攻略[言継卿記]と記載してある。

福井県文書館様には、リンクの許可をいただいてあります。

けると
古老口伝として、弘治2年(1556)3月18日敷地内民屋出火。 午刻本宮炎上。

鐘楼堂は半焼はんしょうだけに。 大般若堂は焼失。 
御神座を古権殿に遷座。

永祿元年(1558)冬建立成就。

正親
町天皇永祿2年(1559)正月6日酉刻太神宮新殿御遷座。

福井県史年表 弘治元年(1555)3月18日敦賀郡氣比社神殿が焼失する。[華頂要略]

永祿2年1月6日
敦賀郡氣比社の新造がなり、神殿の遷座がおこなわれる。[華頂要略]

焼失の記載について
社記は弘治2年(1556)、福井県史の出典は華頂要略で弘治元年(1555)。

社記を編纂した平松周家も青蓮院で華頂要略を元にしているから、
弘治元年(1555)が、正しいと思われる。


これはスゴイ!1326年の後醍醐天皇注進日記

  <後醍醐天皇嘉暦元年注進日記>

氣比太神宮 注進 當神殿舎屋功程事

1・太宮 三間四面在柱隠重垂木檜皮葺
1・東殿 一間四面檜皮葺
1・中門 重垂木間於一丈四尺一寸
1・四面回廊 百五十一間
1・読経所 五間ニ面
1・舞殿 三間皆角物也
1・楽殿 三間ニ面
1・?殿 三間
1・南大門 
1・左右廊 十二間
1・神庫 三間
1・武徳殿 三間四面在柱隠重垂木 
1・音楽殿 七間ニ面三間ニ面
1・御幣殿 八間ニ面
1・炊殿 五間ニ面
1・政所屋 五間ニ面
1・御蔵 三間
1・御厨殿 六間ニ面
1・厩屋 ニ面
1・東門二階楼門 
1・西門四足
1・塀 四十三間
1・? 四十丈
1・玉垣 八十一丈 <3mの81倍は243m> 
1・鳥居五基 内大鳥居一基
1・曾利橋四方渡橋
1・築垣
1・透廊
1・忌殿祓除場 檜皮葺

都合 一萬九千七百九十貫六百文

1貫文 = 2石 19790の2石は
3万9580石 約4万石だ! スゴイぞ。

正中近江大地震:氣比宮社記では、前代未聞と・・。

<正中近江大地震が引き金だ>
<延喜式七座すべて名神大社>
<北斗七星と陰陽五行が合体>

仲哀天皇行宮と南北朝のこの時がみやこ(都)だった!

社記には「前代未聞の珍事・宮社殿屋悉く倒破壊。

正中2年(1325)11月21日子の刻と記す。

この地震は琵琶湖東岸の北にある柳ケ瀬断層で起き、

深坂峠・山中峠の越前側が大破し又延暦寺の常夜灯や竹生島の一角も崩れた。

翌年総工費19790貫600文で造営したのが上の各社殿。

注進には角鹿姓五名と大宮司大中臣姓の計六名が連名。

この記録は10年後にも波紋をなげかける。延元元年(1336)太平記に登場する

気比の弥三良太夫(氏治)大宮司気比太郎斉時の名はない。

敦賀志も是非を知らずとしてる。

食物神(しょくもつかみ)とは!

<氣比神宮御祭神七座>を北斗七星と見立てると「総参祭」の本質が詳細に解明できます。

北斗七星は天帝(北極星)の援護者であり、四季の調整者(時間を計る)と理解できます。

太古より氣比の大神は、御氣津大神即ち四季の調整者として語り継がれ、

推古天皇吉貴二年八月四日加比留の山嶺に瑞雲たなびき

〜国家鎮護の神として朕(仲哀天皇)を氣比の宮〜という降臨伝承が生まれた。

文武天皇大宝二年八月四日寅刻に仲哀天皇を合祀することで

律令国家の護国霊として祀られる。
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