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      由兵衛(よしべえ)手作り工房
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気比神宮寺

715年(霊亀元年) 近江守藤原武智麻呂は比叡山で氣比神と出会う。

自足して、心を物の外に託す。遂に比叡山に登り、留まりて日をわたる。
ここに、柳樹一株を植える。「後の人をしてわが遊び憩い処を知らしめる」という。
公、嘗て夢に一奇人に遇う。容貌常ならず。語りて曰、
「公、仏法を敬慕すること人神共に生きる知る。
幸くばわが為に寺を造りて、わが願いを助け給え。
われ宿業に因りて、神となりてまことに久し。
今、仏道に帰依し、福業を修行せんと欲えども、
因縁を得ず。来りて告げたり。」
公、疑うらくは、これ気比神ならん。
優婆塞久米勝足を取りて、高木末に置き、因りてその験と言い給う。
実なりと知りて一寺を樹てき。
今在る越前国神宮寺是なり。

気比大神宮寺・御子神宮寺の年表

855年(斉衡2)5月5日
詔して,気比大神宮寺・御子神宮寺に常住僧を置く.得度僧5人を許し,心願住者5人の計10人とする〔文徳実録〕
856年(斉衡3)4月7日
気比大神宮寺の寺別当と神宮司は共同で封物の出納を勘知するようにとの太政官符出る〔類聚三代格〕
856年(斉衡3)7月1日
気比大神宮に奉幣し雨を祈ったと伝える〔気比宮社記〕
856年(斉衡3)9月17日
越前国天八百万比?神・天国津比?神・天国津彦神・天鈴神・玉佐々良彦神・信露貴彦神らともに官社に預る〔文徳実録〕
856年(斉衡3)9月28日
越前国天八百万比ヒメ神に従四位下を授ける.天国津比ヒメ神・天国津彦神・天鈴神・玉佐々良彦神・信露貴彦神に従五位下を授ける〔文徳実録〕
858年(天安2)4月7日
仏像の造料として,越前国気比大神宮寺に稲1万束をあてる〔文徳実録〕
859年(貞観1)2月15日
大般若経1部を書写し,気比大神宮寺に安置するよう越前国司に詔が出る〔三代実録〕
860年(貞観2)1月27日
越前国気比大神宮寺に10僧を置き定額寺とするよう詔が出る〔三代実録〕

氣比神宮古図より。

塔心礎(とうしんそ)はお寺に建っている三重塔や五重塔の中心に据える大きな石で作った礎石。その中心の丸い穴に舎利容器(舎利=お釈迦様の骨)を入れる。

福井市史の記述です。

< 武智麻呂が建てた時の心礎 >
藤原氏と仏教の新しい解釈が必要です。藤原不比等は仏教を国家の下に統一した。

敦賀市立博物館川村元館長に教えて頂きました。

< なぜ、調べないのでしょうか、・・もったいない。 >
川村元館長は仏舎利がないので氣比神宮寺の心礎と認めがたい、と。



ネットで調べたら、ちゃんと調べた記録がありました。

「幻の塔を求めて西東」 天理図書館蔵「手書き資料」

一重円孔式、
大きさは137×179×60cm、37×11cmの円孔を穿つ。
奈良後期。



このサイトより。
2009/03/18再訪:気比神宮寺心礎(「幻の塔を求めて西東」に記載あり。
<手書資料>)については情報なし。

気比社神職の談
「神宮寺については郷土史家などが探しているが、全く痕跡が発見されていない。心礎についても、其の存在を聞いたことがない。心礎が残っているのであれば、こちらが知りたい。織田信長の軍勢に気比社は徹底的に破壊された故に、神宮寺の手掛かりは全く無い・云々・・・」

現在、気比社境内には角鹿社の苑池、石碑台石、社務所庭園などにかなりの量の大石が残り、それらを一巡し、一瞥するも心礎らしきものは発見できず。気比社現状は今なお戦前の国家神道の色を濃く残し(しかもそれを誇る悪弊がある)、社殿も空襲により戦後のRCの再建で特に見るべきものはない。

若狭気比社社殿

中世には社家48ヶ家、また検校・行司・別当・執当などの36坊(社僧)があったとされる。中世末には織田信長の越前攻略で壊滅すると云う。

明治の神仏分離で長福院・地蔵院・薬師新は復飾、正覚院(真言宗)のみ現存。護摩堂は正覚院に移築、講堂は白瀬八幡社拝殿として現存する。

心礎 (ウキペディア)

礎石の中で木造塔の中心柱を受けるもので,檫礎(さつそ)ともいう。
心礎は他の礎石に比して著しく大きく,特別な設備をもっている。
奈良県飛鳥寺,川原寺など飛鳥時代から白鳳時代の古い段階では,中心柱は掘立柱形式で,心礎は地中深く埋められている。7世紀後半の本薬師寺の心礎は,東西両塔とも地上に露出しており,この頃から以降は,地上の心礎が一般的となっていったようである。朝鮮でも,百済の古い段階に創建された扶余の軍守里廃寺や金剛寺では地下式心礎であるが,創建の下る弥勒寺は地上式心礎である。しかし新羅慶州の皇竜寺の心礎のように,早くから地上式になっている例もある。心礎の形式には,上面を平たんにするだけのもの,円形孔をほるもの,柱座をつくり出すもの,柱座の中心に円形突起をもつもの,添柱のためと思われる円形孔を加えたものなど多種の形式がある。概して白鳳期以前の古い寺院では,円形孔が多く,柱座の中心に円形の突起をつくる形式は新しい。本薬師寺では,東塔の心礎には3段の円形孔がつくられ,上段が中心柱を受ける円孔,中段が舎利孔の蓋をはめる円孔,下段が舎利孔と考えられているが,西塔の心礎は,柱座をつくり,中央に円形突起をつくる形式である。この頃以降後者の形式が一般化していったようである。心礎には舎利孔を有するものがある。舎利は必ず心礎に埋納されるとは限らないので,舎利孔のないものもあるが,心礎につくられる場合,通常は心礎上面につくられる。飛鳥寺では,平たんな心礎上面に方形の舎利孔がつくられ舎利容器が埋納されていた。円形孔の柱受けを設ける場合は,本薬師寺のように円形孔の中にさらに深く同心円状の孔を設ける例が多いが,大阪府野中寺では円形孔の側壁に舎利孔が設けられている。特殊な例としては,滋賀県崇福寺や高麗寺のように心礎の側面に舎利孔を設けているものもある。心礎上面には,舎利孔のほかに排水溝か通気孔かと考えられている溝のつくられている例がある。飛鳥寺では,舎利孔の周囲を囲んで,四方へ放射状につくられている。
心礎は,中心柱を受ける施設であるため,
平安時代後期以降になって中心柱が中途で切られ,つり下げられる形に変わっていくようになると不要となった。

劔御子寺塔心礎と推定される心礎が現存する。

< 池庭、・・氣比神宮と同じだ! >

近江国の北限を鶴賀と謳歌する武智麻呂伝の他は。

宇佐神宮が朝鮮半島の土俗的な仏教の影響の下、6世紀末には既に神宮寺を建立したとされている。
一般的にはそれより後、日本人が仏は日本の神とは違う性質を持つと理解するにつれ、仏のもとに神道の神を迷える衆生の一種と位置づけた。
日本の神々も人間と同じように苦しみから逃れる事を願い、仏の救済を求め解脱を欲していると認識されるようになったとされている

これを神身離脱という。
715年には越前国気比大神の託宣により神宮寺が建立されるなど、奈良時代初頭から国家レベルの神社において神宮寺を建立する動きが出始め、満願禅師らによる鹿島神宮、賀茂神社、伊勢神宮などで境内外を問わず神宮寺が併設された。また、宇佐八幡神のように神体が菩薩形をとる神(僧形八幡神)も現れた。奈良時代後半になると、伊勢桑名郡にある現地豪族の氏神である多度大神が、神の身を捨てて仏道の修行をしたいと託宣するなど、神宮寺建立の動きは地方の神社にまで広がり、若狭国若狭彦大神や近江国奥津島大神など、他の諸国の神も8世紀後半から9世紀前半にかけて、仏道に帰依する意思を示すようになった。こうして苦悩する神を救済するため、神社の傍らに寺が建てられ神宮寺となり、神前で読経がなされるようになった

こうした神々の仏道帰依の託宣は、そのままそれらを祀る有力豪族たちの願望だったと考えられている。律令制の導入により社会構造が変化し、豪族らが単なる共同体の首長から私的所有地を持つ領主的な性格を持つようになるに伴い、共同体による祭祀に支えられた従来の神祇信仰は行き詰まりを見せ、私的所有に伴う罪を自覚するようになった豪族個人の新たな精神的支柱が求められた。大乗仏教は、その構造上利他行を通じて罪の救済を得られる教えとなっており、この点が豪族たちに受け入れられたと思われる。それに応えるように雑密を身につけた遊行僧が現われ、神宮寺の建立を勧めたと思われる。まだ密教は体系化されていなかったが、その呪術的な修行や奇蹟を重視し世俗的な富の蓄積や繁栄を肯定する性格が神祇信仰とも折衷しやすく、豪族の配下の人々に受け入れられ易かったのだろうと考えられている

こうして神社が寺院に接近する一方、寺院も神社側への接近を示している。8世紀後半には、その寺院に関係のある神を寺院の守護神、鎮守とするようになった。710の興福寺における春日大社は最も早い例である。また、東大寺は大仏建立に協力した宇佐八幡神を勧請して鎮守とし、これは現在の手向山八幡宮である。他の古代の有力寺院を見ても、延暦寺は日吉大社、金剛峯寺は丹生神社、東寺は伏見稲荷大社などといずれも守護神を持つことになった。このように仏教と敵対するのではなく、仏法守護の善神として取り込まれていった土着の神々は護法善神といわれる。

この段階では、神と仏は同一の信仰体系の中にはあるが、あくまで別の存在として認識され、同一の存在と見るまでには及んでいない。この段階をのちの神仏習合と特に区別して神仏混淆ということもある。数多くの神社に神宮寺が建てられ、寺院の元に神社が建てられたが、それは従来の神祇信仰を圧迫する事なく神祇信仰と仏教信仰とが互いに補い合う形となった。

不比等死後20年後近江国12郡を封じて淡海公と。・・。

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