意欲作!大中臣魚取

氣比神宮宮司大中臣魚取の初見。

『類聚三代格』1(神封物并租地子事)
太政官符
-納神用祭気比神宮封租穀事
神祇官�園。彼神宮司大中臣安根解�園。太政官去延暦十二年二月廿七日越前符�園。宮司大中臣魚取解�園。封租穀-納神-用祭而国更-納官-用他彼祭度々祭事由闕怠。望請。-納神-用祭 官者。右大臣宣。依者。国行来既尚矣。而去弘仁元年介橘朝臣永継件租而宮司無以後。積習為-用遠運漕之間殆神事疎略大概在茲。貢神之物豈可此。望請。-納神申請之者。官件租穀専然則於官於神便望請。重-准旧-納神 官者。右大臣宣。依請。-納件国司宮司相共行之。元慶八年九月八日

 

太政官符 元慶8年9月8日(884)
凡そ90年前の延暦12年(793)宮司大中臣魚取は、氣比神宮の祭料には封戸の租穀が充てられる事になっているが国司は封租穀を官庫に納めて他の用途に支出した後神庫に充てるので祭りに間に合わなず闕怠(けったい)することが度々あった。
氣比神宮の封租穀を国司が官庫に徴納するのをやめ,神庫に納め祭料に充てる様に太政官に要請し官符が越前国あてに出たのである。

しかし、弘仁元年(810)越前介橘永継とその時の宮司が相論はしたが相争はしなかったので氣比神宮の封租穀を再び官庫に納めたので、宮司大中臣魚取の旧例に拠り封租穀を神庫に収納する太政官符が越前国司に出された。


<國史面不記魚取名>社記P221か。石塚資元著「敦賀志」P22 。

傳云魚取右大臣大中臣清麻呂之子也魚取一名麻呂也
謹考宝亀七年史籍始置越前国氣比神宮司准従八位官是所謂准官者位田外賜宮司禄物之事
國史面不記魚取名



資元 按ずるに、吾が大御国ハ、神代の昔より、神を祭るを政事の本とし給えり。
されバ祭政一致といい、禁中職員も神祇官・太政官と次第せり。
漸く唐ざまに移り、国司を遷替せしめ給う世と成りても、国司其の国の神の祭を専らとして、民を治められたり。当社は殊に大社たるにより、そのかミ宮司を置かれ(大中臣魚取)、国司と同じく遷替せしめ給えり。され共、其の遷替は、氏中の事に堪える人を撰みて任ぜしめ給えるにて、其の家ハ替らず。たとわバ、津守氏ハ上古より住吉の神主なれ共、其の間にハ対馬守・大隅守などになりて、任処へ趣(赴)かれし人も撰集に見えたり。当宮司も同じ事にて、神主たらざる時ハ国の守たりしもあり(良用等是なり)。
魚取朝臣より今に至りて千百六十余年相続きて宮司たり。

氣比神宮宮司大中臣魚取(赤い印のところ)

< 左221ページの赤い印 >
平松周家著『気比宮社記』
< 右22ページの赤い印 >
石塚資元著「敦賀志」

二階級特進

《卷十九(『類聚國史』・『日本紀略』)逸文大同五年(810四月戊子【十九】》○(『類聚國史』四斎宮・『日本紀略』)戊子。遣使於伊勢大神宮、告定斎内親王之状。」(『類聚國史』七八賞賜)近江國穀三百斛・備前國二百斛、賜石上内親王。近江國穀三百斛・播磨國三百斛・備前國二百斛、賜大原内親王。備前國穀一百斛、賜叡努内親王。」(『類聚國史』九九叙位)是日。從五位下磯野王授從五位上。從四位下藤原朝臣眞夏正四位下。從四位下藤原朝臣繼業從四位上。正五位下紀朝臣田上・菅野朝臣庭主正五位上。從五位上藤原朝臣綱繼・藤原朝臣弟貞正五位下。從五位下大中臣朝臣常麻呂・大中臣朝臣魚取・大枝朝臣永山・御室朝臣氏嗣從五位上。正六位上石川朝臣弟道從五位下。外從五位下伊吉連清守外從五位上。並以督作平城宮也。

《卷十九逸文(『類聚國史』・『日本紀略』)大同五年(810四月己亥【】》○(『類聚國史』九九叙位)己亥。從五位上大中臣朝臣魚取授正五位下。外從五位下山田連弟分外正五位下。並以供奉造平城宮之事也。」(『日本紀略』)從四位下勳七等大伴宿禰久米主卒。年六十一。

810年4月19日從五位下から從五位上。並以督作平城宮也。

 同  4月30日從五位上から正五位下。並以供奉造平城宮之事也。

大中臣常麻呂から推察。

中臣意美麻呂の七男中臣清麻呂は702年生〜788年没。
769年に、中臣清麻呂から大中臣清麻呂に改姓している。
772年正二位・781年桓武天皇の即位後致仕を許され、最終官位は右大臣正二位。
清麻呂の子大中臣今麻呂の生没年は不詳ですが、779年左兵員外佐・781年右大舎人助」・782大判事。
今麻呂の子大中臣常麻呂も生没年は不詳ですが、804年下野介・808年神祇大副・809年右衛士佐、兵部少輔(しょふ)・810年平城宮造営で従五位上に叙位されるが、薬子の変で連座処分される。備前権守に左遷され、5日後伊予守に遷るが、入省はできない。

さて、主人公の大中臣魚取。生没年不詳で、しかも世系不明です。

蔭位の制は、位の高い者の子孫を一定以上の位階を授ける制度。養老律令の選叙令によれば、子孫が21歳になった時叙位される。蔭位資格者は皇親・五世王の子、諸臣三位以上の子と子孫、五位以上の子である。

大中臣子老(こおゆ) 生年不詳

大中臣清麻呂の次男大中臣朝臣子老(こおゆ)も生年は不詳。
767年従五位下・768年中務少輔。769年中臣朝臣から大中臣朝臣姓に改姓。
772年神祇大副として京官に復帰。773年従五位上、774年正五位下、776年正五位上、777年従四位下・神祇伯と、光仁朝では神祇官の官人を務めながら急速に昇進した。781年桓武天皇の即位後間もなく、従四位上・参議に叙任され公卿に列する。桓武朝では、議政官として長く神祇伯を務める傍らで式部大輔・右京大夫・宮内卿・右大弁・兵部卿等を兼任、またこの間の784年には、中納言の藤原小黒麻呂や藤原種継らとともに、遷都のため山城国長岡の地を視察している。786年正四位下。789年1月25日卒去。最終官位は参議宮内卿正四位下兼神祇伯。
母不詳・妻不詳・男子:安遊麻呂・鯛執・武盧・梁麻呂・弟守。

清麻呂の三男大中臣 継麻呂(つぐまろ)も生没年不詳。770年従五位下・771年勅旨少輔779年従五位上・781年衛門佐・782年右少弁・治部大輔と京官を務める786年大和守・788年但馬守。

大中臣継麻呂 生没年不詳

清麻呂の三男大中臣 継麻呂(つぐまろ)も生没年不詳。770年従五位下・771年勅旨少輔779年従五位上・781年衛門佐・782年右少弁・治部大輔と京官を務める。786年大和守・788年但馬守。
母:不詳妻:不詳男子:大中臣貞麻呂男子:大中臣広河男子:大中臣淵魚(774-850)

大中臣 淵魚(ふちな)は、833年従四位上・摂津守に叙任。長らく神祇伯を務め、833年賀茂大神に奉幣し、842年には伊勢・八幡の祟りによる日照りを鎮めるために祈祷を行っている。また、815年から842年にかけて28年に亘って伊勢神宮祭主も務めた。850年3月3日卒去。享年77。最終官位は散位従四位上。

776年と793年


光仁天皇宝亀七年九月詔大中臣魚取始為氣比太神宮司乃詣于神宮主祭典矣因従来宮司大中臣連綿也

至延暦十二年大中臣魚取謹捧封事訟祭料闕怠請官裁則奉蒙勅許

<続日本紀> 776年

《宝亀七年(七七六)正月庚寅朔》七年春正月庚寅朔。宴五位已上於前殿。授正四位上藤原朝臣浜成従三位。賜五位已上禄有差。是日。始列諸王装馬無蓋者於諸臣有蓋之下。
《宝亀七年(七七六)正月丙申【七】》○丙申。授正五位下掃守王正五位上。従五位下礒部王従五位上。正六位上楊胡王従五位下。正四位下藤原朝臣家依正四位上。正五位上石川朝臣垣守従四位下。正五位下多治比真人長野。石川朝臣豊人。大中臣朝臣子老並正五位上。従五位上石上朝臣家成。石川朝臣真永並正五位下。従五位下文室真人水通。藤原朝臣宅美。巨勢朝臣苗麻呂。巨勢朝臣池長。石川朝臣清麻呂。百済王利善。紀朝臣家守。百済王武鏡。山上朝臣船主並従五位上。正六位上藤原朝臣長山。大中臣朝臣諸魚。多治比P4292真人三上。紀朝臣難波麻呂。紀朝臣大宅。石川朝臣太禰。石川朝臣宿奈麻呂。大神朝臣末足。大野朝臣石主。中臣朝臣池守。佐味朝臣継人。阿倍朝臣土作。安曇宿禰清成。紀朝臣牛長並従五位下。正六位上刑部大山。道田連安麻呂。吉田連古麻呂。高橋連鷹主並外従五位下。四品能登内親王三品。無位秋野王。美作王。正五位上多治比真人古奈禰。橘朝臣真都我。久米連若女並従四位下。正五位下巨勢朝臣諸主正五位上。従五位下紀朝臣宮子正五位下。無位平群朝臣邑刀自。藤原朝臣産子。藤原朝臣乙倉。藤原朝臣教貴。従五位下飛鳥真人御井。藤原朝臣今子。県犬養宿禰酒女並従五位上。無位安曇宿禰刀自。外従五位下大鹿臣子虫並従五位下。事畢宴於五位已上。賜禄有差。
《宝亀七年(七七六)正月戊申【十九】》○戊申。以正五位下大伴宿禰潔足為東海道検税使。正五位下石上朝臣家成為東山道使。従五位下吉備朝臣真事為北陸道使。従五位上当麻真人永嗣為山陰道使。正五位下石川朝臣真永為山陽道使。従五位下多治比真人三上為南海道使。従五位下多朝臣犬養為西海道使。毎道判官主典各一人。
《宝亀七年(七七六)正月乙卯【廿六】》○乙卯。P4293授正五位上多冶比真人若日女従四位下。
《宝亀七年(七七六)二月甲子【己未朔六】》○二月甲子。陸奥国言。取来四月上旬。発軍士二万人。当伐山海二道賊。於是。勅出羽国。発軍士四千人。道自雄勝而伐其西辺。是夜。有流星。其大如盆。
《宝亀七年(七七六)二月丙寅【八】》○丙寅。御南門。大隅薩摩隼人奏俗伎。
《宝亀七年(七七六)二月戊辰【十】》○戊辰。外従五位下大住忌寸三行。大住直倭並授外従五位上。外正六位上薩摩公豊継外従五位下。自余八人各有差。
《宝亀七年(七七六)三月辛卯【戊子朔四】》○三月辛卯。勅。前日改弓削宿禰。復弓削連。但故従五位下弓削宿禰薩摩。依旧勿改。
《宝亀七年(七七六)三月癸巳【六】》○癸巳。以従五位下粟田朝臣人成為右少弁。従五位上石川朝臣真守為中務少輔。従五位下大原真人美気為右大舍人助。陰陽頭従五位上山上朝臣船主為兼天文博士。従五位下多朝臣犬養為式部少輔。従五位下池原公禾守為主計頭。外従五位下道田連安麻呂為主税助。正五位下豊野真人奄智為兵部大輔。従五位下石川朝臣名主為鼓吹正。従五位下紀朝臣難波麻呂為刑部少輔。従五位下広川王為大判事。従五位上菅生王為大蔵大輔。従五位下佐味朝臣継人為宮内少輔。従五位下安曇宿禰浄成為内膳奉膳。従五位下浄上王為造酒正。P4294外従五位下高市連豊足為内染正。外従五位下長瀬連広足為園池正。正五位上藤原朝臣雄依為左京大夫。外従五位下高市連屋守為西市正。従五位下多治比真人歳主為摂津亮。従五位下紀朝臣本為春宮亮。大外記外従五位下羽栗翼為兼勅旨大丞。従五位上藤原朝臣鷲取為造宮少輔。従四位下石上朝臣息嗣為造東大寺長官。治部卿正四位上藤原朝臣家依為兼衛門督。従五位下大中臣朝臣諸魚為員外佐。従四位下藤原朝臣小黒麻呂為右衛士督。従五位上巨勢朝臣池長為佐。従五位下大原真人清貞為員外佐。従五位下大中臣朝臣継麻呂為山背守。従四位下大伴宿禰家持為伊勢守。内匠助外従五位下松井連浄山為兼下総大掾。造宮卿従三位高麗朝臣福信為兼近江守。従五位下紀朝臣大宅為飛騨守。従五位下大伴宿禰上足為上野介。従五位上藤原朝臣宅美為越前守。従五位上石川朝臣清麻呂為介。従五位下牟都伎王為越中守。従五位下小治田朝臣諸成為介。従五位下矢集宿禰大唐為能登守。従五位下石川朝臣宿奈麻呂為越後守。従五位上紀朝臣P4295家守為丹波守。従五位下大原真人宿奈麻呂為伯耆守。正五位上多治比真人長野為出雲守。従五位上豊野真人五十戸為介。内薬正外従五位下吉田連斐太麻呂為兼掾。正五位下大伴宿禰潔足為播磨守。外従五位下秦忌寸石竹為介。従五位下大神朝臣末足為備中守。従五位下多治比真人三上為長門守。外従五位下三嶋宿禰宗麻呂為淡路守。従五位上安倍朝臣東人為豊後守。
《宝亀七年(七七六)三月丙申【九】》○丙申。以従四位下石川朝臣垣守為中務大輔。従五位上紀朝臣鯖麻呂為木工頭。
《宝亀七年(七七六)三月辛亥【廿四】》○辛亥。以従五位下多朝臣犬養為右少弁。従五位下粟田朝臣人成為中務少輔。従五位上石川朝臣真守為式部少輔。外従五位下高市連屋守為園池正。外従五位下長瀬連広足為西市正。従五位上紀朝臣家守為春宮亮。丹波守如故。
《宝亀七年(七七六)三月丙辰【廿九】》○丙辰。以従五位下紀朝臣本為尾張守。
《宝亀七年(七七六)四月戊午朔》○夏四月戊午朔。日有蝕之。
《宝亀七年(七七六)四月己巳【十二】》○己巳。勅。祭祀神祇。国之大典。若不誠敬。何以致福。如聞。諸社不修。人畜損穢。春秋之祀。亦多怠慢。因茲嘉祥弗降。災異荐臻。言念於斯。情深慙〓。宜仰諸国。莫令更然。
《宝亀七年(七七六)四月壬申【十五】》○壬申。御前殿賜遣唐使節刀。詔曰。【S56】天皇〈我〉P4296大命〈良麻等〉遣唐国使人〈爾〉詔大命〈乎〉聞食〈止〉宣。今詔。佐伯今毛人宿禰。大伴宿禰益立二人。今汝等二人〈乎〉遣唐国者今始〈弖〉遣物〈爾波〉不在。本〈与利〉自朝使其国〈爾〉遣〈之〉其国〈与利〉進渡〈祁里〉。依此〈弖〉使次〈止〉遣物〈曾〉。悟此意〈弖〉其人等〈乃〉和〈美〉安〈美〉応為〈久〉相言〈部。〉驚〈呂〉驚〈呂之岐〉事行〈奈世曾〉。亦所遣使人判官已下死罪已下有犯者順罪〈弖〉行〈止之弖〉節刀給〈久止〉詔大命〈乎〉聞食〈止〉宣。事畢。賜大使副使御服。賜前入唐大使藤原河清書曰。汝奉使絶域。久経年序。忠誠遠著。消息有聞。故今因聘使。便命迎之。仍賜〓[糸+施の旁]一百匹。細布一百端。砂金大一百両。宜能努力。共使帰朝。相見非〓。指不多及。
《宝亀七年(七七六)四月丙子【十九】》○丙子。授正四位下飯高宿禰諸高従三位。従五位上因幡国造浄成女。壬生宿禰小家主並正五位下。正六位上雀部朝臣広持従五位下。
《宝亀七年(七七六)五月戊子【丁亥朔二】》○五月戊子。出羽国志波村賊叛逆。与国相戦。官軍不利。発下総下野常陸等国騎兵伐之。
《宝亀七年(七七六)五月戊戌【十二】》○戊戌。以近江介従五位上佐伯宿禰久良麻呂為兼陸奥鎮守権副将軍。
《宝亀七年(七七六)五月己亥【十三】》○己亥。散事従四位下佐味朝臣宮卒。
《宝亀七年(七七六)五月庚子【十四】》○P4297庚子。正六位上後部石嶋等六人賜姓出水連。
《宝亀七年(七七六)五月戊申【廿二】》○戊申。授無位公子乎刀自外従五位下。
《宝亀七年(七七六)五月乙卯【廿九】》○乙卯。大祓。以災変屡見也。
《宝亀七年(七七六)五月丙辰【三十】》○丙辰。屈僧六百。読大般若経於宮中及朝堂。
《宝亀七年(七七六)六月庚申【丁巳朔四】》○六月庚申。太白昼見。
《宝亀七年(七七六)六月癸亥【七】》○癸亥。播磨国戸五十煙捨招提寺。
《宝亀七年(七七六)六月甲子【八】》○甲子。近衛大初位下粟人道足等十人賜姓粟直。
《宝亀七年(七七六)六月己巳【十三】》○己巳。参議従三位大蔵卿兼摂津大夫藤原朝臣楓麻呂薨。平城朝贈太政大臣房前之第七子也。
《宝亀七年(七七六)六月壬申【十六】》○壬申。右京大夫従四位下百済王理伯卒。
《宝亀七年(七七六)六月癸酉【十七】》○癸酉。授無位坂本王従五位下。
《宝亀七年(七七六)六月甲戌【十八】》○甲戌。大祓京師及畿内諸国。奉黒毛馬丹生川上神。旱也。
《宝亀七年(七七六)七月丁亥【丙戌朔二】》○秋七月丁亥。従四位下置始女王卒。
《宝亀七年(七七六)七月壬辰【七】》○壬辰。参議正四位上陸奥按察使兼鎮守将軍勲三等大伴宿禰駿河麻呂卒。贈従三位。賻〓[糸+施の旁]卅疋。布一百端。
《宝亀七年(七七六)七月己亥【十四】》○己亥。令造安房。上総。下総。常陸四国船五十隻。置陸奥国以備不虞。
《宝亀七年(七七六)七月庚子【十五】》○庚子。以従五位下石川朝臣人麻呂為大和検税使。従五位下多治比真人乙安為河内和泉使。従五位下息長真人道足為摂津山背使。
《宝亀七年(七七六)七月甲辰【十九】》○甲辰。震西大寺西塔。
《宝亀七年(七七六)七月丙午【廿一】》○丙午。以従五位下上毛野朝臣馬長為出羽守。
《宝亀七年(七七六)八月丙辰朔》○八月丙辰朔。遣使奉幣於天下群神。其天下諸社之祝。P4298不勤洒掃。以致蕪穢者。収其位記。与替。
《宝亀七年(七七六)八月癸亥【八】》○癸亥。山背国乙訓郡人外従五位下羽栗翼賜姓臣。
《宝亀七年(七七六)八月戊辰【十三】》○戊辰。大風。
《宝亀七年(七七六)八月庚午【十五】》○庚午。天下諸国蝗。畿内者遣使巡視。余者令国司行事。
《宝亀七年(七七六)八月壬午【廿七】》○壬午。授正五位上石川朝臣豊人従四位下。
《宝亀七年(七七六)閏八月庚寅【乙酉朔六】》○閏八月庚寅。先是。遣唐使船到肥前国松浦郡合蚕田浦。積月余日。不得信風。既入秋節。弥違水候。乃引還於博多大津。奏上曰。今既入於秋節。逆風日扇。臣等望。待来年夏月。庶得渡海。是日勅。後年発期一依来奏。其使及水手並宜在彼待期進途。
《宝亀七年(七七六)閏八月甲辰【廿】》○甲辰。以右大舍人頭従四位下神王為兼下総守。弾正尹従四位下藤原朝臣弟縄為兼美作守。
《宝亀七年(七七六)閏八月壬子【廿八】》○壬子。丹後国与謝郡人采女部宅刀自女一産三男。賜糧及乳母糧料。」壱伎嶋風。損苗子。免当年調。
《宝亀七年(七七六)九月甲子【乙卯朔十】》○九月甲子。以宮内卿正四位下大伴宿禰伯麻呂為兼越前守。
《宝亀七年(七七六)九月丁卯【十三】》○丁卯。陸奥国俘囚三百九十五人分配大宰管内諸国。
《宝亀七年(七七六)九月庚午【十六】》○庚午。始置越前国気比神宮司。准従八位官。
《宝亀七年(七七六)九月甲戌【二十】》○甲戌。幸大蔵省。賜陪従五位已上禄。並皆尽重而出。
《宝亀七年(七七六)九月庚辰【廿六】》○庚辰。山辺真人何鹿。山辺真人猪名。並復属籍。
《宝亀七年(七七六)九月》是月。毎夜。瓦P4299石及塊自落内竪曹司及京中往往屋上。明而視之。其物見在。経廿余日乃止。
《宝亀七年(七七六)十月壬辰【乙酉朔八】》○冬十月壬辰。美濃国菅田駅。与飛騨国大野郡伴有駅。相去七十四里。巖谷険深。行程殊遠。其中間量置一駅。名曰下留。
《宝亀七年(七七六)十月癸巳【九】》○癸巳。地震。
《宝亀七年(七七六)十月乙未【十一】》○乙未。陸奥国頻経征戦。百姓彫弊。免当年田租。
《宝亀七年(七七六)十月乙巳【廿一】》○乙巳。授従六位上栗前連枝女外従五位下。
《宝亀七年(七七六)十月丁未【廿三】》○丁未。以参議従三位藤原朝臣田麻呂為摂津大夫。
《宝亀七年(七七六)十一月丙辰【乙卯朔二】》○十一月丙辰。地震。
《宝亀七年(七七六)十一月己巳【十五】》○己巳。遣唐大使佐伯宿禰今毛人自大宰還而進節刀。副使大伴宿禰益立。判官海上真人三狩等。留府待期。時人善之。
《宝亀七年(七七六)十一月庚辰【廿六】》○庚辰。発陸奥軍三千人伐胆沢賊。
《宝亀七年(七七六)十一月癸未【廿九】》○癸未。出羽国俘囚三百五十八人配大宰管内及讃岐国。其七十八人班賜諸司及参議已上為賤。
《宝亀七年(七七六)十二月丁酉【甲申朔十四】》○十二月丁酉。停遣唐副使大伴宿禰益立。以左中弁兼中衛中将鋳銭長官従五位上小野朝臣石根。備中守従五位下大神朝臣末足並為副使。」募陸奥国諸郡百姓戍奥郡者。便即占著。給復三年。
《宝亀七年(七七六)十二月乙巳【廿二】》○乙巳。渤海国遣献可大夫司賓少令開国男史都蒙等一百八十七人。賀我即位。并赴彼国王妃之喪。比着我岸。忽遭悪風。柁折帆落。漂没者多。計其全存。僅有四十六人。便於越前国加賀郡安置供給。
《宝亀七年(七七六)十二月戊申【廿五】》○戊申。左京人従六位下P4300秦忌寸長野等廿二人賜姓奈良忌寸。山背国葛野郡人秦忌寸箕造等九十七人朝原忌寸。
《宝亀七年(七七六)十二月庚戌【廿七】》○庚戌。豊前国京都人正六位上〓[木+若]田勝愛比賜姓大神〓[木+若]田朝臣。左京人少初位上蓋田蓑長丘連。

この当時の氣比神宮の凄さとは。


《卷十二延暦廿三年(八〇四)六月丙辰【十三】》○丙辰。制。常陸國鹿嶋神社。越前國氣比神社。能登國氣多神社。豐前國八幡神社等宮司。

人懷競望。各稱譜第。自今以後。神祇官検舊記。常簡氏中堪事者。擬補申官。

延暦二十三年(804) 越前国気比神社などの宮司には,譜第氏中の事に堪えられるものを選び,擬補し太政官に申せとの制あり。



大同一年   (806) この年封戸数,気比神は240戸,劔御子神は30戸,椎前神は3戸,若狭比古神は10戸とみえる〔新抄格勅符抄〕。

9世紀初頭の例では、172の官社に対して、神戸4876戸で1社平均28戸。

気比神は240戸はずば抜けて多く、織田町の剣神社は劔御子神と云われ、神戸は30戸。

国史に大中臣魚取の名前がないか、「蓋國史面不記魚取名」の検証

太政官去延暦十二年(793)二月廿七日越前符�園。宮司大中臣魚取解�園

《卷十二延暦廿三年(八〇四)六月丙辰【十三】》○丙辰。制。常陸國鹿嶋神社。越前國氣比神社。能登國氣多神社。豐前國八幡神社等宮司。人懷競望。各稱譜第。自今以後。神祇官検舊記。常簡氏中堪事者。擬補申官。

《卷十七大同三年808六月壬申【廿一】》○壬申。省因幡國八上郡莫男驛。智頭郡道俣驛馬各二匹。以不縁大路乘用希也。』東山道觀察使從四位上守刑部卿兼右衞士督陸奧出羽按察使臣藤原朝臣緒嗣言。臣染疾已還。年月久矣。幸沐天地覆〓之恩。遂荷聖明昌泰之運。P5113臣至今日。實頼鴻私。臣聞。定刑名决疑〓者。刑官之職掌也。然則罪之輕重。人之死生。平反所由。最合留意。又禁衞宮掖。検校隊仗者。衞府之守局也。然則以時巡検。臨事陳設。若有闕失。罪更寄誰。是故快課拙。常慮其難。况今以庸愚。當出遠鎭。毎思方任。未遑内官。豈帶宿衞。遥臨邊要。伏望解辭文武兩職。且避賢路。且專劣懷。斯臣之中識。匪敢外飾。無任丹款懇切之至。謹昧死奉表陳情以聞。』是日。令有品親王并諸司把笏者進役夫。各有差。爲防葛野河也。』從五位下葛井宿禰豐繼爲右京亮。從五位下大中臣朝臣魚取爲大和介。從五位下紀朝臣百繼爲上野權介。右衞士佐如故。從五位下紀朝臣良門爲越後守。

《卷十九(『類聚國史』・『日本紀略』)逸文大同五年(810四月戊子【十九】》○(『類聚國史』四斎宮・『日本紀略』)戊子。遣使於伊勢大神宮、告定斎内親王之状。」(『類聚國史』七八賞賜)近江國穀三百斛・備前國二百斛、賜石上内親王。近江國穀三百斛・播磨國三百斛・備前國二百斛、賜大原内親王。備前國穀一百斛、賜叡努内親王。」(『類聚國史』九九叙位)是日。從五位下磯野王授從五位上。從四位下藤原朝臣眞夏正四位下。從四位下藤原朝臣繼業從四位上。正五位下紀朝臣田上・菅野朝臣庭主正五位上。從五位上藤原朝臣綱繼・藤原朝臣弟貞正五位下。從五位下大中臣朝臣常麻呂・大中臣朝臣魚取・大枝朝臣永山・御室朝臣氏嗣從五位上。正六位上石川朝臣弟道從五位下。外從五位下伊吉連清守外從五位上。並以督作平城宮也。

《卷十九逸文(『類聚國史』・『日本紀略』)大同五年(810四月己亥【】》○(『類聚國史』九九叙位)己亥。從五位上大中臣朝臣魚取授正五位下。外從五位下山田連弟分外正五位下。並以供奉造平城宮之事也。」(『日本紀略』)從四位下勳七等大伴宿禰久米主卒。年六十一。

《卷廿二弘仁四年(813二月丙申【十三】》○丙申。外從五位下勇山連家繼爲大學博士。正五位下大中臣朝臣魚取爲民部少輔。外從五位下物部中原宿禰敏久爲大判事。外從五位下日下部連高道爲大炊助。從五位下安倍朝臣節麻呂爲造酒正。從五位上高階眞人遠成爲大和介。從五位上三原朝臣弟平爲尾張守。外從五位下縵連家繼爲越中權介。

大同三年(808)6月21日從五位下大中臣朝臣魚取爲大和介
大同五年(810)4月19日從五位下大中臣朝臣魚取從五位上(從五位下大中臣朝臣常麻呂)
大同五年(810)4月30日從五位上大中臣朝臣魚取授正五位下(平城宮供奉二階級特進)
弘仁二年(811)9月25日正五位下大中臣朝臣魚取大和介(宮崎康充編国司補任より)
弘仁四年(813)2月13日正五位下大中臣朝臣魚取爲民部少輔

大中臣清麻呂。「傳云魚取右大臣大中臣清麻呂之子也魚取一名麻呂也」の検証。

中臣鎌足が藤原姓を賜った後、その子藤原不比等が幼かったため、鎌足の甥で婿養子とも言われる中臣意美麻呂が暫定的に藤原氏を継いだ。後に、不比等の成長を待ち、正式に文武天皇の命令によって改めて鎌足の嫡男として不比等とその子孫のみに藤原姓を許し、他の者は中臣氏に復するように命じられて意美麻呂も中臣姓に戻る。意美麻呂は不比等の後押しで中納言に昇進した。意美麻呂の息子である大中臣清麻呂(正二位・右大臣、702年 - 788年)は、神護景雲3年(769年)6月に「大中臣朝臣」を賜姓されて、以後その子孫は「大中臣氏」と称した。
また、後には中臣氏の嫡流あるいはそれに近いとされた「三門」(『中臣氏系図』)と呼ばれる家々があったが、平安時代に入るとこれらの家々に対しても大中臣氏の名乗りが許されるようになった。

大中臣氏の中で最も力を振るったのは嫡流とされた清麻呂の系統で、神祇伯や伊勢祭主を世襲した。天平15年(743年)従五位下・神祇大副に叙任される。聖武朝末の天平19年(747年)尾張守として地方官に転じるが、孝謙朝に入り天平勝宝3年(751年)従五位上に叙せられ、天平勝宝6年(754年)神祇大副に還任し次いで左中弁に任ぜられた。天平勝宝9年(757年)正五位下、天平宝字3年(759年)正五位上と藤原仲麻呂政権下において順調に昇進し、天平宝字6年(762年)正月に従四位下叙せられると、同年12月には仲麻呂の子である訓儒麻呂・朝狩とともに参議に叙任され公卿に列した。また同年8月には、藤原訓儒麻呂・上道正道らとともに中宮院に侍して淳仁天皇の勅旨の宣布・伝達する任務を務めた。翌天平宝字7年(763年)左大弁・摂津大夫を兼ね、天平宝字8年(764年)正月には従四位上に任ぜられる。同年9月に発生した藤原仲麻呂の乱においては、孝謙上皇(後の称徳天皇)側について正四位下に昇叙され、翌天平神護元年(765年)には勲四等の叙勲を受ける。称徳天皇重祚後の大嘗会に神祇伯として供奉したが、幾度にも亘り神祇官の官人を務め、清廉で勤勉であることを天皇より賞され、従三位に叙せられている。称徳朝から光仁朝にかけても、神護景雲2年(768年)中納言、神護景雲4年(770年)正三位・大納言と引き続き昇進を続け、宝亀2年(771年)には左大臣・藤原永手の薨去や右大臣・吉備真備の致仕に伴い、従二位・右大臣に叙任されて、以後宝亀11年(780年)末まで太政官の首班を占めた。宝亀2年(771年)皇太子・他戸親王の東宮傅となるも、翌宝亀3年(772年)他戸親王が皇太子を廃されたために東宮傅を免ぜられる。しかし、宝亀4年(773年)に今度は山部親王(のち桓武天皇)が立太子すると再び東宮傅に還任された。また、この間の神護景雲3年(769年)中臣朝臣から大中臣朝臣姓に改姓している。

宝亀3年(772年)正二位。天応元年(781年)桓武天皇の即位後間もなく致仕を許され、延暦7年(788年)7月28日薨去。享年87。最終官位は前右大臣正二位。
 

  • 父:中臣意美麻呂
  • 母:多治比阿伎良(多治比嶋の娘)
  • 妻:多治比子姉(または乙奈子) - 従二位、尚侍
    • 四男:大中臣諸魚(743-797)
  • 生母不詳
    • 長男:大中臣宿奈麻呂
    • 次男:大中臣子老(?-789)
    • 三男:大中臣継麿(?-?)
    • 男子:大中臣老人
    • 男子:大中臣今麿(?-?)
    • 女子:藤原瀧麻呂室

同年代か、大中臣常麻呂「傳云魚取右大臣大中臣清麻呂之子也魚取一名麻呂也」の検証。

大中臣 常麻呂大中臣今麻呂の子。     大中臣魚取(ネットで調べても世系不明
                       793年、氣比神宮宮司
延暦23年(804年)正月、下野介、従五位下。 
大同 3年(808年)11月、神祇大副。       808年6月21日任 大和介、従五位外。(日本後記)
大同 4809年)  2月、右衛士佐 3月、兵部少輔
大同 5年(
810年)  4月、従五位上。      810年4月30日從五位上大中臣朝臣魚取授正五位下(類聚国史)
 9月11日
薬子の変で処罰。備前権守に左遷、5日後伊予守
弘仁二年(811)                     811年9月25日見 大和介、正五位外。宮崎康充編「国史補任」

弘仁四年(813)                     813年2月13日任 民部少輔。(日本後記)

神戸(かんべ・じんご)

日本には遅くとも6〜7世紀くらいから諸地方に、社〔やしろ〕を設けて神を祀る『はふり』という人々がいました。これに中国の下級神官である「祝」の字をあてたのが『祝〔はふり〕』です。【はふり】の語義は不詳ですが、概ね、よくないものを「放る」とか「葬る」といった意味であったろうと考えられています。
その祝の姓〔かばね〕を持つ人が、祭祀権を握っていたであろう地方の首長に少なくないことは、神祇伯の職掌に祝部の名帳管理があったことと併せて留意すべきでしょう。
朝廷は令制導入の課程でこれら祝を機構の下部に取り込んでいきます。そうして中央にいた祝を『神主』と呼ぶようになり、地方の祝を「祝部」として組織したと考えられています。神主(あるいは「神宮司」=宮司〔ぐうじ〕さん)の下で祝部を統率するのが『禰宜〔ねぎ〕』です。

祝部は把笏〔はしゃく〕を許されていますが、特に官位相当の定めはなく、有位者もいないわけではありませんが、外官と同じ扱いです。
職掌は、諸社の祭事、社殿の保全・修理といったことの他、神祇官が執り行う2月の祈年祭、及び、天皇が自ら執り行う6・12月の月次祭と11月の新嘗祭など、朝廷が催す豊穣祈願の祭祀に祭物を持ち寄って参列し(別の表現をするならば「呼び出されて」)供物を賜ることです。(持ち寄った祭物は祭のあとで本社に奉納することになっていたようです。)
祈年祭の意味や起源はまだまだ明らかにされてはいないようですが、地方首長とその神々を天皇と天照大神の下に従属させる服属儀礼であったことだけは確かと考えられています。

祝部は「神戸〔じんご/かんべ〕」の中から任用しますが、神戸のいない地方では、少なくとも8世紀前半頃は、国司が撰定したり神祇官が使を派遣して卜定したりして、白丁〔はくてい/はくちょう〕(=下級官人の子や庶人)から任用していたようです。
9世紀半ば頃から地方の祝部は少なくとも中央の行う祭祀をサボるようになります。そのことと関連があるのか、貞観7(865)年の格で、白丁の任用をやめて八位以上・60歳以上を任用することとし、貞観10(868)年には諸国の雑色人〔ぞうしきにん〕も任用することとします。

これは職名ではなく、官社に世襲的に所属し、納めた調庸や田租を神宮造営や神へ供える調度の費用に充てることが定められている良人の戸(=世帯)のことです。租庸調・雑徭などの負担内容は一般良人と同じですが、納めたあとの使われ方が特定されているわけです。
9世紀初頭の例では、172の官社に対して、神戸4876戸でした。1社平均28戸くらいですね。

ちなみに神戸の租庸調は一般良人と同じく国司に納めます。そうして国司から太政官に報告、太政官の大史→民部省→神祇官という手続きが取られます。神戸の納めた税は「神税」と呼び、義倉(=窮民用の備蓄)に準じた扱いで国司が管理します。出挙〔すいこ〕(=利子付の貸し出し)することはできません。

社記の713年



元明天皇和銅六年依勅

改角鹿文字而令書敦賀郡

録此土産物献上于京師



続日本紀の713年には、記述なし。

《和銅六年(七一三)正月戊辰(乙丑朔四)》六年春正月戊辰。備前国献白鳩。伯耆国献嘉瓜。左京職献稗化為禾一茎。
《和銅六年(七一三)正月丙子(十二)》○丙子。従四位下行伊福部女王卒。
《和銅六年(七一三)正月丁亥(廿三)》○丁亥。授正四位上巨勢朝臣麻呂。正四位下石川朝臣宮麻呂並従三位。無位門部王従四位下。無位高安王従五位下。正五位上阿倍朝臣広庭。笠朝臣麻呂。多治比真人三宅麻呂。藤原朝臣武智麻呂並従四位下。正六位下巨勢朝臣安麻呂。正七位上石川朝臣君子。従六位下佐伯宿禰沙弥麻呂。正七位上久米朝臣麻呂。正七位下大神朝臣興志。従七位下榎井朝臣広国。正六位上大蔵忌寸老。錦部連道麻呂。伊吉連古麻呂並従五位下。
《和銅六年(七一三)二月甲午朔》○二月甲午朔。日有蝕之。
《和銅六年(七一三)二月壬子(十九)》○壬子。始制度量・調庸・義倉等類五条事。語具別格。
《和銅六年(七一三)二月丙辰(廿三)》○丙辰。志摩国疫。給薬救之。
《和銅六年(七一三)三月壬午(十九)》○三月壬午。詔曰。任郡司少領以上者。性識清廉。雖堪時務。而蓄銭乏少。不満六貫。自今以後。不得遷任。」又詔。諸国之地。江山遐阻。負担之輩。久苦行役。具備資糧。闕納貢之恒数。減損重負。恐饉路之不少。宜各持一嚢銭。作当炉給。永省労費。往還得便。宜国郡司等。募豪富家。置米路側。任其売買。一年之内。売米一百斛以上者。以名奏聞。又売買田。以銭為価。若以他物為価。田并其物、共為没官。或有糺告者。則給告人。売及買人、並科違勅罪。郡司不加検校。違十事以上。即解其任。九事以下、量降考第。国司者式部監察。計違附考。或雖非用銭。而情願通商者聴之。
《和銅六年(七一三)四月乙未(癸巳朔三)》○夏四月乙未。割丹波国加佐。与佐。丹波。竹野。熊野五郡。始置丹後国。割備前国英多。勝田。苫田。久米。大庭。真嶋六郡。始置美作国。割日向国肝坏。贈於。大隅。姶〓[ネ+羅]四郡。始置大隅国。」大倭国疫。給薬救之。
《和銅六年(七一三)四月戊申(十六)》○戊申。頒下新格并権衡・度量於天下諸国。
《和銅六年(七一三)四月己酉(十七)》○己酉。因諸寺田記錯誤。更為改正。一通蔵所司。一通頒諸国。
《和銅六年(七一三)四月乙卯(廿三)》○乙卯。授従四位下安八万王従四位上。正五位下大石王従四位下。従五位上益気王正五位下。従四位上多治比真人池守正四位下。正五位上百済王遠宝従四位下。従五位上大伴宿禰男人正五位上。従五位下賀茂朝臣吉備麻呂正五位下。従五位下笠朝臣長目。穂積朝臣老。小野朝臣馬養。調連淡海。倉垣忌寸子首並従五位上。」讃岐国飢。賑恤之。」始制。五位以上同位階者。因年長幼。以為列次。
《和銅六年(七一三)四月丁巳(廿五)》○丁巳。制。銓衡人物。黜陟優劣。式部之任。務重他省。宜論勲績之日。無式部長官者。其事勿論焉。
《和銅六年(七一三)五月甲子(癸亥朔二)》○五月甲子。制。畿内七道諸国郡郷名、着好字。其郡内所生。銀銅彩色草木禽獣魚虫等物。具録色目。及土地沃〓。山川原野名号所由。又古老相伝旧聞異事。載于史籍亦宜言上。
《和銅六年(七一三)五月己巳(七)》○己巳。制。夫郡司大少領。以終身為限。非遷代之任。而不善国司。情有愛憎。以非為是。強云致仕。奪理解却。自今以後。不得更然。若歯及縦心。気力〓弱。筋骨衰耗。神識迷乱。又久沈重病。起居不漸。漸発狂言。無益時務。如此之類。披訴心素。帰田養命。於理合聴。宜具得手書、陳牒所司。待報処分。撰択替補。
《和銅六年(七一三)五月癸酉(十一)》○癸酉。相摸。常陸。上野。武蔵。下野。五国輸調。元来是布也。自今以後。〓[糸+施の旁]・布並進。又令大倭参河並献雲母。伊勢水銀。相摸石硫黄。白樊石。黄樊石。近江慈石。美濃青樊石。飛騨。若狭並樊石。信濃石硫黄。上野金青。陸奥白石英。雲母。石硫黄。出雲黄樊石。讃岐白樊石。
《和銅六年(七一三)五月甲戌(十二)》○甲戌。讃岐守正五位下大伴宿禰道足等言。部下寒川郡人物部乱等廿六人。庚午以来。並貫良人。但庚寅校籍之時。誤渉飼丁之色。自加覆察。就令自理。支証的然。已得明雪。自厥以来。未附籍貫。故皇子命宮検括飼丁之使。誤認乱等、為飼丁焉。於理斟酌、何足憑拠。請、従良色。許之。
《和銅六年(七一三)五月丁亥(廿五)》○丁亥。始令山背国点乳牛戸五十戸。
《和銅六年(七一三)六月庚戌(癸巳朔十八)》○六月庚戌。従七位上家原河内。正八位上家原大直。大初位上首名等三人、並賜連姓。
《和銅六年(七一三)六月辛亥(十九)》○辛亥。右京人支半于刀。河内国志紀郡人刀母離余叡色奈。並染作暈繝色而献之。以労各授従八位下。并賜〓[糸+施の旁]十疋。糸〓〓[糸+句]。布〓端。塩十籠。穀一百斛。
《和銅六年(七一三)六月癸丑(廿一)》○癸丑。始置大膳職史生四員。
《和銅六年(七一三)六月乙卯(廿三)》○乙卯。行幸甕原離宮。
《和銅六年(七一三)六月戊午(廿六)》○戊午。還宮。
《和銅六年(七一三)七月丙寅(壬戌朔五)》○秋七月丙寅。詔曰。授以勲級。本拠有功。若不優異。何以勧獎。今討隼賊将軍并士卒等、戦陣有功者一千二百八十余人。並宜随労授勲焉。
《和銅六年(七一三)七月丁卯(六)》○丁卯。大倭国宇太郡波坂郷人大初位上村君東人得銅鐸於長岡野地而献之。高三尺。口径一尺。其制異常。音協律呂。勅所司蔵之。
《和銅六年(七一三)七月戊辰(七)》○戊辰。美濃・信濃二国之堺。径道険隘。往還艱難。仍通吉蘇路。
《和銅六年(七一三)八月辛丑(壬辰朔十)》○八月辛丑。従五位下道公首名、至自新羅。
《和銅六年(七一三)八月乙卯(廿四)》○乙卯。大風。抜木発屋。
《和銅六年(七一三)八月丁巳(廿六)》○丁巳。以正五位下大伴宿禰道足。為弾正尹。従四位下大石王為摂津大夫。従五位下榎井朝臣広国為参河守。従五位下大神朝臣興志為讃岐守。従五位下道君首名為筑後守。
《和銅六年(七一三)九月丁丑(辛酉朔十七)》○九月丁丑。造宮卿従四位下大伴宿禰手拍卒。
《和銅六年(七一三)九月己卯(十九)》○己卯。摂津職言。河辺郡玖左佐村。山川遠隔。道路嶮難。由是。大宝元年、始建館舍。雑務公文。一准郡例。請、置郡司。許之。今能勢郡是也。」詔。和銅四年已前。公私出挙稲粟、未償上者。皆免除之。
《和銅六年(七一三)九月辛巳(廿一)》○辛巳。加大蔵省史生六員。
《和銅六年(七一三)十月戊戌(辛卯朔八)》○冬十月戊戌。制。諸寺多占田野。其数無限。宜自今以後。数過格者。皆還収之。
《和銅六年(七一三)十月庚子(十)》○庚子。板屋司班帙。一准寮焉。〈 蓋改法用司為板屋司也。 〉
《和銅六年(七一三)十月丁巳(廿七)》○丁巳。更加民部省史生六員。
《和銅六年(七一三)十月戊午(廿八)》○戊午。詔。防人赴戍時、差専使。由是。駅使繁多。人馬並疲。宜逓送発焉。
《和銅六年(七一三)十一月辛酉朔》○十一月辛酉朔。伊賀。伊勢。尾張。参河。出羽等国言。大風、傷秋稼。調庸並免。但已輸者。以税給之。
《和銅六年(七一三)十一月乙丑(五)》○乙丑。貶石川・紀二嬪号。不得称嬪。
《和銅六年(七一三)十一月丙子(十六)》○丙子。詔。正七位上按作磨心。能工異才。独越衆侶。織成錦綾。実称妙麗。宜磨心子孫免雑戸。賜姓柏原村主。大倭国献嘉蓮。近江国献木連理十二株。但馬国献白雉。」太政官処分。凡諸司功過者。皆申送弁官。乃官下式部。
《和銅六年(七一三)十一月乙酉(廿五)》○乙酉。権充兵馬司史生四人。
《和銅六年(七一三)十二月辛卯(庚寅朔二)》○十二月辛卯。新建陸奥国丹取郡。
《和銅六年(七一三)十二月乙未(六)》○乙未。右大弁従三位石川朝臣宮麻呂薨。近江朝大臣大紫連子之第五男也。
《和銅六年(七一三)十二月庚子(十一)》○庚子。始加中務省史生十員。
《和銅六年(七一三)十二月乙巳(十六)》○乙巳。近江国言。慶雲見。丹波国献白雉。仍曲赦二国。
《和銅六年(七一三)十二月己酉(二十)》○己酉。始加宮内省史生十員。

社記の748年


聖武天皇天平二十年将異賊来襲西海于時

十一月十一日夜敦賀地震動而久志川浜辺数千緑松忽然出現翠色高聳白鷺群集于樹上為白旗之翻相

此夜西海之賊船悉覆歿賊徒溺海水因祠官等謹緑松白鷺奇瑞達天聴者有

宜造営宮社之宜旨而未果延引至

弘仁元年因嵯峨天皇詔令改造神宮殿舎等

続日本紀の748年には、記述なし。

《天平二十年(七四八)正月壬申朔》廿年春正月壬申朔。廃朝。宴五位已上於内裏。賜禄有差。其余、於朝堂賜饗焉。
《天平二十年(七四八)正月甲戌【三】》○甲戌。大倭連深田。魚名並賜宿禰姓。
《天平二十年(七四八)正月戊寅【七】》○戊寅。天皇御南高殿、宴五位以上。授正五位上坂上忌寸犬養従四位下。正六位上角朝臣道守従五位下。正六位上津史秋主外従五位下。宴訖、賜禄有差。
《天平二十年(七四八)二月己未【辛丑朔十九】》○二月己未。授従三位巨勢朝臣奈弖麻呂正三位。正四位上三原王。正四位下石上朝臣乙麻呂並従三位。従四位上紀朝臣麻路正四位上。従四位上多治比真人広足。従四位下大伴宿禰兄麻呂並正四位下。従四位下佐伯宿禰浄麻呂。佐伯宿禰常人並従四位上。正五位上石川朝臣麻呂。百済王孝忠。紀朝臣宇美並従四位下。正五位下巨勢朝臣堺麻呂。背奈王福信並正五位上。従五位上多治比真人屋主。藤原朝臣巨勢麻呂並正五位下。従五位下石川朝臣名人。鴨朝臣角足。民忌寸真楫並従五位上。外従五位下若犬養宿禰東人。国君麻呂。正六位上百済王元忠。藤原朝臣魚名。多治比真人石足。佐伯宿禰乙首名。久米朝臣湯守。柿本朝臣市守。粟田朝臣奈勢麻呂。石川朝臣豊人。平群朝臣人足。田中朝臣少麻呂。大伴宿禰御依。阿倍朝臣鷹養。津嶋朝臣家虫。佐味朝臣広麻呂。建部公豊足。日下部宿禰大麻呂並従五位下。外従五位下陽侯史真身外従五位上。正六位上高市連大国外従五位下。
《天平二十年(七四八)二月辛酉【廿一】》○辛酉。従五位上佐伯宿禰稲麻呂贈従四位上。
《天平二十年(七四八)二月壬戌【廿二】》○壬戌。進知識物人等。外大初位下物部連族子嶋。外従六位下田可臣真束。外少初位上大友国麻呂。従七位上漆部伊波並授外従五位下。
《天平二十年(七四八)二月乙丑【廿五】》○乙丑。授従五位上佐味朝臣虫麻呂正五位下。従五位下葛井連広成従五位上。外従五位上陽侯史真身従五位下。
《天平二十年(七四八)三月戊寅【辛未朔八】》○三月戊寅。宣勅。朕以薄徳、君臨四海。夙興夜寝。憂労兆民。然猶風化未洽。犯禁者多。是訓導之不明。非黎首之愆咎。万方有罪。在予一人。咸洗瑕穢。更令自新。宜大赦天下。自天平廿年三月八日昧爽已前。大辟已下、咸悉赦除。
《天平二十年(七四八)三月己卯【九】》○己卯。正六位上葛城忌寸豊人授外従五位下。
《天平二十年(七四八)三月壬午【十二】》○壬午。以従五位下巨勢朝臣君成為下野守。
《天平二十年(七四八)三月壬辰【廿二】》○壬辰。従三位藤原朝臣豊成授従二位。拝大納言。従三位藤原朝臣仲麻呂正三位。正四位下大野。広瀬。粟田女王並正四位上。従四位上河内女王正四位下。
《天平二十年(七四八)四月庚申【庚子朔廿一】》○夏四月庚申。太上天皇崩於寝殿。春秋六十有九。
《天平二十年(七四八)四月辛酉【廿二】》○辛酉。以従三位智努王。石上朝臣乙麻呂。従四位上黄文王。従四位下大市王。正四位上紀朝臣麻呂。従四位下藤原朝臣八束。為御装束司。六位已下八人。従三位三原王。従四位上石川王。道祖王。従四位下紀朝臣飯麻呂。吉備朝臣真備為山作司。六位已下八人。従五位上阿倍朝臣嶋麻呂。外従五位下丹比間人宿禰若麻呂。為養役夫司。六位已下十人。勅、令左右京。四畿内及七道諸国挙哀三日。
《天平二十年(七四八)四月壬戌【廿三】》○壬戌。於大安寺誦経。
《天平二十年(七四八)四月甲子【廿五】》○甲子。於山科寺誦経。
《天平二十年(七四八)四月丙寅【廿七】》○丙寅。当初七。於飛鳥寺誦経。自是之後。毎至七日。於京下寺誦経焉。
《天平二十年(七四八)四月丁卯【廿八】》○丁卯。勅、天下悉素服。是日、火葬太上天皇於佐保山陵。
《天平二十年(七四八)五月丁丑【庚午朔八】》○五月丁丑。勅、令天下諸国奉為太上天皇。毎至七日。国司自親潔斎。皆請諸寺僧尼。聚集於一寺。敬礼読経。
《天平二十年(七四八)五月己丑【二十】》○己丑。右大史正六位上秦老等一千二百余煙。賜伊美吉姓。
《天平二十年(七四八)六月壬寅【己亥朔四】》○六月壬寅。正三位藤原夫人薨。贈太政大臣武智麻呂之女也。
《天平二十年(七四八)六月癸卯【五】》○癸卯。令百官及諸国釈服。
《天平二十年(七四八)七月戊寅【己巳朔十】》○秋七月戊寅。正六位下中臣部干稲麻呂賜中臣葛野連姓。正八位下山代直大山等三人並賜忌寸姓。
《天平二十年(七四八)七月丙戌【十八】》○丙戌。従五位下大倭御手代連麻呂女賜宿禰姓。奉為太上天皇、奉写法華経一千部。
《天平二十年(七四八)七月戊戌【三十】》○戊戌。河内・出雲二国飢。賑恤之。
《天平二十年(七四八)八月辛丑【己亥朔三】》○八月辛丑。近江・播磨飢。賑給之。」賜外従五位下高市大国連姓。
《天平二十年(七四八)八月癸卯【五】》○癸卯。改定釈奠服器及儀式。
《天平二十年(七四八)八月乙卯【十七】》○乙卯。八幡大神祝部従八位上大神宅女。従八位上大神杜女並授外従五位下。
《天平二十年(七四八)八月己未【廿一】》○己未。車駕幸散位従五位上葛井連広成之宅。延群臣宴飲。日暮留宿。明日。授広成及其室従五位下県犬養宿禰八重並正五位上。是日、還宮。
《天平二十年(七四八)十月乙丑【戊戌朔廿八】》○冬十月乙丑。詔免京畿内七道諸国田租。
《天平二十年(七四八)十月丁亥(この月なし。)》○丁亥。正七位下広幡牛養賜秦姓。
《天平二十年(七四八)十一月己丑【丁卯朔廿三】》○十一月己丑。下道朝臣乙吉備。真事。広三人。並賜吉備朝臣姓。
《天平二十年(七四八)》○十二月甲寅【丁酉朔十八】》○十二月甲寅。遣使、鎮祭佐保山陵。度僧尼各一千。

社記の770年


称徳天皇神護景雲四年八月二日勅使正七位上中臣飯麻呂奉幣帛於当社令祈祷寶祥安全也

是聖體違例篤且為除弓削氏之檀権也

続日本紀の770年に、記述有り。

《宝亀元年(七七〇)八月庚寅朔》○八月庚寅朔。日有蝕之。遣参議従四位下外衛大将兼越前守藤原朝臣継縄。左京少進正六位上大中臣朝臣宿奈麻呂。奉幣帛及P4214赤毛馬二疋於伊勢太神宮。遣若狭国目従七位下伊勢朝臣諸人。内舍人大初位下佐伯宿禰老。奉鹿毛馬於若狭彦神。八幡神宮。各一疋。
《宝亀元年(七七〇)八月辛卯【二】》○辛卯。遣神祇員外少史正七位上中臣葛野連飯麻呂。奉幣帛於越前国気比神。能登国気多神。使雅楽頭従五位下伊刀王受神教於住吉神。
《宝亀元年(七七〇)八月癸巳【四】》○癸巳。天皇崩于西宮寝殿。春秋五十三。」左大臣従一位藤原朝臣永手。右大臣従二位吉備朝臣真備。参議兵部卿従三位藤原朝臣宿奈麻呂。参議民部卿従三位藤原朝臣縄麻呂。参議式部卿従三位石上朝臣宅嗣。近衛大将従三位藤原朝臣蔵下麻呂等。定策禁中。立諱為皇太子。」左大臣従一位藤原朝臣永手受遺宣曰。【S47】今詔〈久〉。事卒爾〈爾〉有依〈天〉、諸臣等議〈天〉。白壁王〈波〉諸王〈乃〉中〈爾〉年歯〈毛〉長〈奈利〉。又先帝〈乃〉功〈毛〉在故〈爾〉、太子〈止〉定〈天〉、奏〈波〉奏〈流麻爾麻〉定給〈布止〉勅〈久止〉宣。」遣使固守三関。」以従三位文室真人大市。高麗朝臣福信。藤原朝臣宿奈麻呂。藤原朝臣魚名。従四位下藤原朝臣楓麻呂。藤原朝臣家依。正五位下葛井連道依。石川朝臣垣守。従五位下太朝臣犬養。六位十一人。為御装束司。従三位石川朝臣豊成。P4215従五位上奈癸王。正四位下田中朝臣多太麻呂。従四位上佐伯宿禰今毛人。従四位下安倍朝臣毛人。従五位上安倍朝臣浄成。従五位下小野朝臣石根。六位已下八人。為作山陵司。従五位下石川朝臣豊人。外従五位下高松連笠麻呂。六位二人、為作路司。外従五位下佐太忌寸味村。外従五位下秦忌寸真成。判官・主典各二人。宮内。大膳。大炊。造酒。筥陶。監物等司各一人。為養役夫司。興左右京、四畿内。伊賀。近江。丹波。播磨。紀伊等国役夫六千三百人。以供山陵。
《宝亀元年(七七〇)八月乙未【六】》○乙未。天下挙哀。服限一年。差近江国兵二百騎。守衛朝庭。以従三位藤原朝臣宿奈麻呂為騎兵司。従五位上阿倍朝臣浄成為次官。判官・主典各二人。
《宝亀元年(七七〇)八月丁酉【八】》○丁酉。停釈奠。以天下凶服也。是日、自天皇崩。爰登一七。於東西大寺誦経。
《宝亀元年(七七〇)八月戊戌【九】》○戊戌。授正五位下豊野真人出雲従四位下。従五位上豊野真人奄智正五位下。従五位下豊野真人五十戸従五位上。以其父故式部卿従二位鈴鹿王旧宅。為山陵故也。授従五位上藤原朝臣乙縄従四位下。正六位上藤原朝臣是人従五位下。
《宝亀元年(七七〇)八月己亥【十】》○己亥。蝦夷宇漢迷公宇屈波宇等。忽率徒族。逃還賊地。差使P4216喚之。不肯来帰。言曰。率一二同族。必侵城柵。於是。差正四位上近衛中将兼相摸守勲二等道嶋宿禰嶋足等。検問虚実。
《宝亀元年(七七〇)八月乙巳【十六】》○乙巳。二七。於薬師寺誦経。
《宝亀元年(七七〇)八月丙午【十七】》○丙午。葬高野天皇於大和国添下郡佐貴郷高野山陵。以従三位藤原朝臣魚名為御前次第司長官。従五位下桑原王為次官。判官・主典各二人。従四位下藤原朝臣継縄為御後次第司長官。従五位下大伴宿禰不破麻呂為次官。判官・主典各二人。」皇太子在宮留守。道鏡法師奉梓宮。便留廬於陵下。」天皇、自幸由義宮。便覚聖躬不予。於是。即還平城。自此積百余日。不親視事。群臣曾無得謁見者。典蔵従三位吉備朝臣由利。出入臥内。伝可奏事。天皇尤崇仏道。務恤刑獄。勝宝之際。政称倹約。自太師被誅。道鏡擅権。軽興力役。務繕伽藍。公私彫喪。国用不足。政刑日峻、殺戮妄加。故後之言事者。頗称其冤焉。
《宝亀元年(七七〇)八月庚戌【廿一】》○庚戌。皇太子令旨。如聞。道鏡法師。窃挟舐粳之心。為日久矣。陵土未乾。姦謀発覚。是則神祇所護。社稷攸祐。今顧先聖厚恩。不得依法入刑。故任造下野国薬師寺別当発遣。宜知之。即日。遣左大弁正四位下佐伯宿禰今毛人。弾正尹P4217従四位下藤原朝臣楓麻呂。役令上道。」以従五位下中臣習宜朝臣阿曾麻呂為多〓嶋守。
《宝亀元年(七七〇)八月辛亥【廿二】》○辛亥。以従五位上阿倍朝臣東人為中務大輔。従五位上日置造簑麻呂為図書頭。従四位下藤原朝臣楓麻呂為伊勢守。従五位下桑原王為下野員外介。従四位上左中弁内竪大輔内匠頭右兵衛督藤原朝臣雄田麻呂為兼越前守。式部大輔従四位下藤原朝臣家依為兼丹波守。従五位下文室真人高嶋為備中守。従五位下大伴宿禰東人為周防守。参議従三位兵部卿兼造法華寺長官藤原朝臣宿奈麻呂為大宰帥。」流道鏡弟弓削浄人。浄人男広方。広田。広津於土左国。
《宝亀元年(七七〇)八月壬子【廿三】》○壬子。三七。於元興寺誦経。是日。授従四位上坂上大忌寸苅田麻呂正四位下。以告道鏡法師姦計也。
《宝亀元年(七七〇)八月乙卯【廿六】》○乙卯。河内職復為河内国。」以慈訓法師。慶俊法師復為少僧都。
《宝亀元年(七七〇)八月丁巳【廿八】》○丁巳。授大学頭諱従四位下。」以従五位下賀茂朝臣浄名為員外少納言。従四位上藤原朝臣雄田麻呂為右大弁。内竪大輔・内匠頭・右兵衛督如故。従四位下諱為侍従。従四位下吉備朝臣泉為大学頭。従五位上紀朝臣広庭為河内守。従五位下桑原王為P4218下総介。造宮卿従三位高麗朝臣福信為兼武蔵守。大蔵卿従三位藤原朝臣魚名為兼但馬守。従五位下大伴宿禰潔足為因幡守。近衛少将従五位下紀朝臣船守為兼紀伊守。従四位下豊野真人出雲為大宰大弐。
《宝亀元年(七七〇)八月戊午【廿九】》○戊午。初天平十二年、左馬寮馬部大豆鯛麻呂、誣告河内国人川辺朝臣宅麻呂男杖枚代。勝麻呂等。編附飼馬。宅麻呂累年披訴。至是始雪。因除飼馬之帳。
《宝亀元年(七七〇)八月己未【三十】》○己未。四七。於大安寺設斎焉。
《宝亀元年(七七〇)九月壬戌【庚申朔三】》○九月壬戌。令旨。比年。令外之官。其員繁夥。徒費国用。無益公途。省官簡務。往聖嘉典。除要司外。宜悉廃省矣。又以去天平勝宝九歳改首・史姓。並為毘登。彼此難分。氏族混雑。於事不穏。宜従本字。又先著、袍衣。以疋為限。天下服用。不聞狭窄。比来。任意競好寛大。至于裁袍更加半疋。袍襖亦斉。不弁表裏。習而成俗。為費良深。自今以後。不得更然。
《宝亀元年(七七〇)九月乙丑【六】》○乙丑。徴和気清麻呂。広中於備後・大隅。詣京師。
《宝亀元年(七七〇)九月丙寅【七】》○丙寅。五七。於薬師寺設斎焉。」以従五位下文室真人真老為丹波員外介。従五位下阿倍朝臣小東人為伯耆守。従四位下藤原朝臣乙縄為土左守。
《宝亀元年(七七〇)九月辛未【十二】》○辛未。基信親族近江国人従八位下物部宿禰P4219伊賀麻呂等三人。復本姓物部。
《宝亀元年(七七〇)九月癸酉【十四】》○癸酉。六七。於西大寺。設斎焉。
《宝亀元年(七七〇)九月乙亥【十六】》○乙亥。以従五位下石川朝臣真守為少納言。従五位上大伴宿禰家持為左中弁兼中務大輔。従五位下橘宿禰綿裳為少輔。従三位藤原朝臣宿奈麻呂為式部卿。造法華寺長官如故。近衛大将従三位藤原朝臣蔵下麻呂為兼兵部卿。従五位上阿倍朝臣東人為宮内大輔。中務少輔従五位下橘宿禰綿裳為兼山背守。従五位下豊国真人秋篠為甲斐守。従五位上榎井朝臣子祖為上総守。従四位下藤原朝臣乙縄為美作守。従五位上巨勢朝臣公成為長門守。従三位石上朝臣宅嗣為大宰帥。正四位下坂上大忌寸苅田麻呂為陸奥鎮守将軍。
《宝亀元年(七七〇)九月辛巳【廿二】》○辛巳。七七。於山階寺。設斎焉。諸国者。毎国屈請管内僧尼於金光・法華二寺。行道・転経。是日。京師及天下諸国大秡。
《宝亀元年(七七〇)九月壬午【廿三】》○壬午。停一年服期。天下従吉。
《宝亀元年(七七〇)是年》○是年六・七月、慧星入於北斗。P4220

『日本後紀』朝日新聞本でご紹介しています。

『日本後紀』朝日新聞本
凡例
底本: 『増補 六国史』(全十二巻 佐伯有義、朝日新聞社、昭和15)巻五、六を新訂増補国史大系本他、諸本で校訂しました。
日本後紀(にほんこうき)は、平安時代初期に編纂された勅撰史書で、続日本紀に続く六国史の第三にあたります。承和7年 (840年) に完成し、延暦十一年 (792年) から天長十年 (833年) に至る42年間を記します。編者は藤原緒嗣ら。編年体、漢文、全40巻で、現存は、巻五、八、十二、十三、十四、十七、二十、二十一、二十二、二十四の10巻です。
朝日新聞社本は、巻五に現存の十巻、巻六に残り三十巻の逸文を載せています。
逸文は、六国史等の抜粋版である『日本紀略』と、六国史の項目分類である『類聚国史』を主に、諸本からの引用により本文を部分的に復元しています。
記事の冒頭に、(  )に出典を記しています。
『増補 六国史』の頁を記しました。P+増補 六国史の巻数1桁(日本後紀・上=5、日本後紀・下=6)+ページ3桁
JISにない文字は、他の文字に置き換えるか、〓にしました。一部[ ]に字の形を示しました。
漢字は、原則として底本の字体(主に旧字体)にしました。
割注は、〈    〉に入れました。
各項目の始めに《年月日》を付しました。

類聚三代格(るいじゅさんだいきゃく)は、平安時代(恐らく11世紀)に書かれた法令集。著者は不明。
弘仁格・貞観格・延喜格のいわゆる格を事例ごとに類聚(ジャンル分け)してまとめたもの。全30巻と伝えられているが、原本がどういう形であったかは不詳である。

平安時代に令外官が増加すると律令で定められた職制が有名無実と化し、従来の官庁ごとに配列されている格では実際の政務には必要な情報の入手が困難となった。そこで「神社事」・「国分寺事」・「庸調事」・「禁制事」・「断罪贖銅事」などのように事例ごとに類聚して90篇(現存82篇)にまとめられた。格の原文がほぼそのまま引き写されたと考えられる「類聚三代格」は、当時の古代法制の実態を知るために貴重な史料である。

  • 第一巻----神社に関する祭幣・託宣・神主・祓い
  • 第二巻----造仏・法会・僧職任命
  • 第三巻----国分寺・僧の位階・僧の禁忌・地方の講師
  • 第四巻----中央官司の廃置・定員
  • 第五巻----諸国官僚の廃置・位階
  • 第六巻----官僚の給与体系
  • 第七巻----公卿の意見、地方役人の取り締まり
  • 第八巻----農業奨励・租税・金銭貸借
  • 第九巻----班田・公営田・墾田・山川藪沢
  • 第十巻----天皇・宮中の食膳・恩赦・文書・印
  • 第十一巻--軍隊・徴兵・相撲・駅・材木
  • 第十二巻--各種の禁令・刑罰