擬領神社
オホミヤツコジンジャ
二社御子神は擬領神社(祭神一座)と伊佐々別太神又は御食津神社(保食荒魂神一座)で北面也としています。(氣比宮社記39ページ)
擬領神社は、一説武功狭日命(タケイササヒノミコト)又は擬領神と書いて大美屋都古能神(オホミヤツコノカミ)と訓みます。又は延喜式の玉佐々良彦神社を挙げています。
僕は擬領神をオホミヤツコノカミと訓読することに注目しています。郡司の 候補者を擬任郡司とし、擬大領・擬 少領と云います。
福井県史より。
これは古事記孝霊天皇段に、「次に日子刺肩別命は、高志の利波臣、豊国の国前臣・五百原君、角鹿の済(海)直の祖なり」としてみえる。これだけではこの氏が国造であったかどうか判然としないが、一般に「直」は国造に多い姓である。また奈良時代の史料に、角鹿直・敦賀直と称する人名がみえる。すなわち角鹿直綱手は、天平三年(七三一)、敦賀郡少領であり、敦賀直嶋麻呂は、天平神護元年(七六五)、藤原仲麻呂の乱における戦功により外従五位下に叙せられている。
平安時代に入ってからも、角鹿直福貴子・角鹿直真福子などは、宮廷に仕え五位に任ぜられている。これらの人びとは、おそらく敦賀郡の豪族で、国造家の後裔と考えられる。したがって、かつての角鹿海直、のちの角鹿直が国造に任ぜられていた可能性は強い。
もっとも、両者を別にとらえる説もあり、角鹿海直を丹後の海部直や吉備の海直と関連的に考察する視角も残しておきたい。
なお、角鹿海直と吉備臣との関係については不明であるが、両者ともに孝霊天皇を祖とする同族関係の伝承があることは注目すべき事象である。
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有力な豪族が朝廷に帰順して国造に任命され、臣・連・君・公・直などの姓(カバネ)が贈られ、軍事権、裁判権など広い範囲で自治権を認められた。
国造は、東国の国造のように部民や屯倉の管理なども行ったり、出雲の国造のように神祇を祀り、祭祀で領内を統治するなどしたり、紀国造などのように外交に従事したりしたことなどが分かる。また、筑紫の国造のように北九州を勢力下に入れ、朝廷に反抗する者もいた。
大化の改新以降は主に祭祀を司る世襲制の名誉職になり、従来の国造の職務は郡司が担当した。国造が治めた国は整理・統合、あるいは分割され、令制国に置き換えられた。国造には国造田などが支給され、郡司などを兼任する者もいた。
その後、8世紀後半以降には国造はなくなっていった。
9世紀成立の「国造本紀」(『先代旧事本紀』巻10)には、全国135の国造の設置時期と任命された者らの記録があるが、文久元年(1861年)の栗田寛著作の『国造本紀考』に、「国造本紀」の来歴や偽書の指摘、国造各々の詳細な解説がなされ、「国造本紀」は史料たりえる書物ではなく、普及もしなかったと指摘がある。
壬生小家主女 (みぶのおやかぬしめ)
?−? 奈良時代の女官。常陸(茨城県)出身。
采女(うねめ)として後宮につかえる。
藤原仲麻呂の乱鎮定や孝謙上皇の重祚にかかわった功績で、
天平神護元年(765)従五位下となり、勲五等も授与された。
神護景雲2年(768)には常陸国造(ひたちのくにのみやつこ)となり,
のち正五位下に昇進。
842年 嵯峨天皇の采女
大分県竹田市の宮処野神社(みやこのじんじゃ)
≪御祭神≫ 景行天皇 日本武尊 嵯峨天皇
村人がこの行宮の地に景行天皇の霊をお祀りしたことに始まると伝えられ、日本武尊の霊を合祀し、「景行宮」と称したといいます。
弘仁5年(814年)、宮処野神社の社家でもあった、直入郡擬大領の吉野廣雄の娘は、嵯峨天皇の采女となり宮中に召されました。
承和9年(842年)7月、天皇が崩御された後、來田見郷(くたみのさと)に帰り、嵯峨天皇の恩贈の御物を現在の鎮座地の境内の玉垣の内(現:擬山陵)に鎮め奉り奉仕し天皇の冥福を祈られました。
その後の仁寿3年(853年)嵯峨天皇の霊をお祀りしたことから「嵯峨宮さま」として親しまれるようになりましたが、明治4年(1871年)に「宮処野神社」と改称され現在にいたります。
社号にもなっている宮処野神社が鎮座する「宮処野」という小字の地名は、景行天皇が土蜘蛛を征伐する時に、行宮(かりみや)が設けらたことに由来するそうです。
867年3月 角鹿直眞福子(日本三代実録)
无位當麻眞人靜子。安倍朝臣全子。紀朝臣原子。爲奈眞人永子並授從五位下。
角鹿直眞福子外從五位下。
867年 無位から外従五位下 紀朝臣全子(陽成天皇の乳母
氏姓は山村忌寸のち紀朝臣。散位従五位下源蔭の妻で、源益らの母。陽成天皇の乳母。紀乳母と呼ばれた。
867年無位から外従五位下に叙位される。868年12月に貞明親王(のちの陽成天皇)の乳母になり、翌年1月には従五位下に昇叙された。
元慶7年(883年)全子の子源益が宮中で殴殺されるという事件が起こり、これが陽成天皇が退位に追い込まれた原因の一つとされている。山村忌寸は秦始皇帝の後裔古礼公の子孫とする。
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長屋王邸跡から出土した木簡が証明しました。
江祥里/戸主角鹿直綱手・戸口海直宿奈万呂調三斗
731年 敦賀郡少領勲12等角鹿直綱手 (正倉院文書)
828年 采女角鹿直福貴子 越前国正税500束を給す。(類聚国史)
867年 采女角鹿直真福子 外従五位外に任ぜられている。(三代実録)